『新撰俳諧三十六句僊』にあらわれた武州の著名な在村俳人は、その多くが農業・手工業・商業・金融業などをいとなむ村役人層の豪農であった。昭島市域の一般的な在村俳人のばあいはどうであったのだろうか。ここで、俳号と実在人名とがわかっているばあいを例にとってくわしく見てみよう。
まず昭島の在村俳人のおおくが、村役人層にぞくするものであることは、武州一般の例にも、また日本全体の在村文化のありかたとも共通することである。田中村の「吉従」矢島定右衛門、上川原村の「友子」指田七郎右衛門、大神村「成富」石川武兵衛・「季翠」中村嘉右衛門・「槐堂」中村半左衛門らは、俳号と実人名の一致が史料的に確認された例だが、いずれも名主などの村役人層にぞくしている。
拝島村では、明治年間に入ってから日吉連という俳諧グループがつくられたが、このメンバーも幕末からつづいている村役人層の家柄がほとんどである。
拝島村日吉連
榎本化道 松井南圃 乙幡乙二(二三蔵)
小林静糸(権之助)(糸撚業)目黒米車(忠蔵)(水車稼業)金子花外
神保玉光 榎本喜好(亀太郎) 和田松濤(金兵衛)
秋山静山
『武陽拝嶋両大師永代奉額并日吉連々号披露句集募句要項』、明治二一年。八王子市秋山泰子氏所蔵。小沢勝美氏教示。
( )内実人名は、『正風蕉門人名録』明治二八年。青梅市横川邦三郎氏所蔵による。
( )家業は明治十四年現在、『拝島村誌』による。
そのほか実人名がわかるのは明治期におおいが、拝島村の「桑圃」大沢勝右衛門・「花房」和田英・「馥郁」秋山忠七、大神村の「苦楽」志茂芳候ら(『正風蕉門人名録』)も村役人層であった。
こうした在村俳人のなかから、郷地村のうたゝ宮崎伊八と、大神村季翠中村嘉右衛門をとりあげて、俳諧とのかかわりや経営のあり方など在村文化人の社会的な実態をくわしく見てみよう。