季翠中村嘉右衛門豊長は中村家九代目と称し、文化元(一八〇四)年生れ、明治二三(一八九〇)年八六歳で歿している。季翠の俳号のほかにも「蓉堂」・「蓉杢」とも号し、その父半左衛門一仲の代からひきつづいて、俳諧達者であった。一仲の俳号は「中子」と推定されているが、うたゝとほぼ同世代で、『立川諏訪宮額面発句』などにうたゝとともに句をのこしている(前項参照)。季翠は一生のあいだに、おびただしい数の句をつくった。『耕園居月並』(前項参照)などの月並句合に、仲間といっしょに投稿しているほか、個人の句控帳や、妻の「みつし女」との句合草稿も数多くみつかっている。現存するものの題名はつぎのとおりである。
『艸枕』 春の部・夏の部・秋の部・冬の部四冊九二六句
『春混題発句集』
『春夏発句稿』
『夏乱発句集』
『秋混題句合』
『冬混題句合』
『穐(秋)冬乱題句合』
『春夏帖』(酉のとし)
『摘英集』(明治十八年)
『艸枕』の四冊は、妻「みつし女」と共同の句合集、二人だけで一〇〇〇句に近い数におよんでいる。女性も同等な立場で在村文化を構成していたことになろうか。そのほかは、季翠自身の句集である。さいごの一冊をのぞき、すべて「宝雪庵」または「宝雪庵可尊」という宗匠の評をうけている。宝雪庵については俳界では何も明らかにされていないが、市域の史料から推すると、可尊は明治六年に七五歳だった人。市域の俳人は登場しないが『大国魂神社祭礼奉灯発句合 武府中玉垣連』(明治六(一八七三)年五月一日開巻。中村保夫家所蔵)の判者としてもその名をみせている。おそらく天保年間ごろから活躍していたであろう。多摩地域をその地盤の一つとしている宗匠らしい。文政一〇(一八二七)年には、前掲の『宝雪庵蘭山評 月並句合 亥七月分』に、その先代と推定される蘭山の庵号がみられる。これは季翠の父「中子」ら市域俳人がまとまって登場する句合だが、市域外からは、飯能・恩多・谷保・本宿など多摩の村名・宿名のほかに、沼津・岡崎・駿府・水戸・北越・周防など全国からの投稿者をのせている。可尊の、おそらくは先代とみられる宝雪庵(蘭山)のばあいでも、多摩地域を一つの地盤としながら、一応全国的にも名を知られている江戸の宗匠の一人とみてよいであろう。また、江戸旗本屋敷地帯の俳人にまじって市域俳人がまとまって登場している武牛門赤山輯『基墨庵芳随評月並句合 発句合』(文政一〇年。前掲)にも、別格として蘭山が寄句している。いずれにせよ蘭山・可尊ら宝雪庵は、多摩の在村俳人にとって、化政期から父子代々にわたってゆかりの深い江戸の宗匠であったのだろう。
季翠中村嘉右衛門の個人句集の一部
さて季翠の子一〇代目は半左衛門一豊であるがかれも俳句のほかに書をよくし、近くの観音寺や自家の門前にある家作などを利用して寺子屋もひらいていた。(天保二(一八三一)年生、明治三二(一八九九)年歿)
孫の一一代目半左衛門泰豊(安政三(一八五六)年生、大正一三(一九二四)年歿)は、俳号「槐堂(かいどう)」で、祖父季翠以上に膨大な数の句をつくっており、懐中版の句控帳数冊には小さな字でびっしりと句が書きこまれている。書も得意で、自宅の寺子屋「執中舎」で書などをおしえていた。明治五(一八七二)年「学制」が制定されると、これにのっとり大神・宮沢・田中・上川原四ケ村連合の学校として「執中学舎」を観音寺境内に創設するのに尽力した。学区取締の任についていた時期には執中学舎を「成隣学校」に組織がえ、明治九(一八七六)年にはみずからはさらに「広敬塾」という私塾をつくり、法律・経済・産業などの教師をまねいて、青年専門教育にも手を広げた。政治面では、神奈川県会議員にも当選、神奈川県武蔵六郡懇親会・北多摩郡懇親会などには、改進党系で参加している。晩年大正初期は東京府会議員にもなっている。
産業面では、養蚕改良に力を入れて『養蚕全書』(稿本)をあらわし、群馬・神奈川・東京の博覧会に繭・生糸を出品して何回か受賞した。明治一〇年内国勧業博覧会にも、自己経営の織物生産による「博多男女帯地」を出品している。また神奈川県・北多摩郡などの蚕糸業組合役員、青梅鉄道・北多摩農業銀行・東京府農工銀行の創立委員・役員などもつとめた。(『実業奨励者具申』・『表彰状』、中村保夫家所蔵。史料編九一参照)
つまり中村家は、力作勧業型の啓蒙的な豪農として、幕末~明治期の文化をふくむ村々のあらゆる面で支配的立場にたってきた家である。そのなかで、九代目「季翠」嘉右衛門は、化政期の経済的上昇の波にのって、つぎのような織物経営をすすめつつ、在村文化発展期のにない手の一人になっていたのである。
今ヲ距ル六拾年以前文政十二丑年、亡祖父嘉右衛門(后ニ知常ト改ム)男女博多織帯地ノ製産ヲ試シ、私財ヲ投ジテ之レヲ上州桐生ニ探リ筑前本場ニ糺(ただ)シ、熟慮考察以テ自得スル所アリ。茲(ここ)ニ於テ染色ヲ矯(た)メ紡績ヲ正シ機具ヲ改メ職工ヲ新ニシ、熱心鋭意寝食ヲ忘レテ能(よ)ク製法ノ薀奥ヲ極メ、良品ヲ産出セルヨリ全国ノ信用ヲ得、日ニ月ニ販路ヲ拡張シ、其製品ノ筑前本場ニ譲ラサルニ至リ、一時該製品ヲ以テ嘉右衛門織ト称道シ、大ニ其名声ヲ博シタリ、故ニ各地ニ於テ該製品ヲ摸擬シ之レヲ製産スルモノ陸続起リ、企業者ヲ蕃殖シ公益ヲ興セシ事著明ニシテ、八王子博多織ノ権輿ハ嘉右衛門織ヲ以テ嚆矢(こうし)トス……………(『実業精励者具申』明治二五年六月、中村保夫家所蔵)
これは、孫の槐堂半左衛門が、「多衆ノ模範トナルヘキ実業精励者」として大神村ほか八ケ村組合から推薦されたときの村長青木伝七の具申書で、中村家の「実業」の開始期について述べている部分である。
時は文政十二年で西暦一八二九年、筑前(今福岡県)や上州(今群馬県)の織物先進地に学び、染色・紡績のやり方を改良し、織子をあらたに組織し、製品を八王子市場へ出荷して嘉右衛門織とよばれていたことなどが、村長のやや誇張気味の文体のなかからうかがうことができる。
博多織は、生糸を原料とする絹織物の一種で、たて糸に細いより糸を、よこ糸には太目のより糸を、堅く織りこんでゆく平織である。帯地につかわれ、博多帯ともよばれていた。おこりは近世初期ともつたえられているが、喜多川守貞が天保~嘉永期に「守貞幼少の時、京坂市民の息子は博多帯を用う」(『守貞漫稿』)とかきのこしているように、文化年間(一八〇四~一八一八)にはすでに、京坂上方地方の町人にもっとも日常的につかわれる帯地になっていたらしい。
上方に流行しきった文化・風俗・産物が江戸に伝わってくるとき、はじめは上方から直接輸入する形で、高価な代償をはらってまず江戸町人上層にひろまりはじめる。やがて中層以下にひろまりつつ需要が増大してくると、関東の特産物地帯(織物でいえば、桐生・足利・伊勢崎など)が、上方をまねて生産をはじめる。より安価に容易に入手できるようになると、いっそう中下層町人にひろまるとともに、需要増大に刺激されて、多摩郡など江戸周辺農村でも生産されるようになる。多くの生産物が在方市をとおして江戸に集荷され、一般庶民層からさらに農民上層にまで普及する。嘉右衛門織の八王子市場での名声振りは、まさにこのような上方町人の文化・風俗の全国化・地方化・庶民化の波の一つにのったものであったといえよう。
こうしてはじまった、嘉右衛門の織物経営は、新しい経済発展の基礎となるわけだが、どのくらいの規模の経営であったのか。以下『八王子市史』下巻によって見てゆこう。嘉右衛門は、原料の生糸を同じ多摩郡の鑓水村(今八王子市)百姓五郎吉という生糸仲買商から大量に購入していた。五郎吉は、今の八王子南部から町田市にかけての多摩丘陵養蚕地帯の村々から生糸を買集め、これを八王子北部の秋川・多摩川沿いの織物地帯の村々に売りさばいていた。持高一二石余・奉公人四人ほどの経営で、組頭として村役人にぞくする農民だったとされている。在村文化人として台頭しつつある嘉右衛門の経営の順調な成り立ちの背後には、これら村役人層豪農相互の活発な経済活動による深い結びつきが多摩郡全域規模でひろがっていたことになる。
文政初年頃の五郎吉は、生糸の売り先とごく少量ずつの取引をするだけであったが、嘉右衛門織など多摩の織物生産発展期にぶっつかったのであろう、文政一一年ごろから一度に五貫目以上の買付をする得意先があらわれ、天保六・七年頃から、その人数が急増した。ちょうどそのころ天保一二年の販売記録が『八王子市史』に紹介され、そのなかに大神村嘉右衛門の名が見出される。天保一二年上半期だけで、「生糸七貫一八〇匁 代金四四両余」の取引をしていた。ほかにも一一貫余六九両余の取引をした大神村伊右衛門の名がみられ、そのほか五貫目以上の取引者が拝島村一人、一~二貫目のもの大神村一人が記録されている。
嘉右衛門・伊右衛門は、五郎吉の今期生糸全一二八貫約九四八両におよぶ取引の八六%強をしめる上位八人(最高二九貫一八四両余)のなかに入っているから、嘉右衛門の経営は、多摩地域のなかではかなり大きな部類にぞくしていたといえよう。上半期だけで生糸七貫余といえば、たとえばとなりの田中村明治七年の年間生産記録「繭拾九石一斗此生糸九貫五五〇目」(養蚕戸数明治元年記録二九戸)・上川原村明治五年「生糸七貫五百目」にほぼ匹敵する。五郎吉家以外から買入れることも考えあわせると、養蚕の発達度がやや低かった近世でいえばおそらく四~五か村の生糸産額にあたるぐらいの大量の生糸を、嘉右衛門は年間購入していたことになろう。
これだけの大量購入糸は、もちろん中村家の家族・奉公人の家内労働による織物加工でさばけるものではない。家内労働で織物に加工する分も皆無ではなかっただろうが、そのほとんどはおそらく、村の内外の下層農民の婦女子を「織子(おりこ)」に組織し、原料糸として貸しあたえて加工させたものであろう。織子は「織元(おりもと)」から原料糸のほかに道具や、生計費にあてる金銭の前貸も受けるのがふつうである。また織子の家の養蚕・製糸経営による手持ち生糸も、前貸し生糸とこみにして加工され、製品は一括そのまま織元の手に入る。それらによって前貸相当分が帳消しされる形で、織賃・染色経費などが支払われたことにする。こうした生産形態を当時は賃織・賃機などとよんでいた。嘉右衛門は、名主としての村落内での有利な立場に立ちながら、問屋・仲買・利貸の性質をかねそなえ、その下に零細な織子農民を前貸的に組織し支配する、いわゆる問屋制家内手工業の経営者「織元」として、経済発展の波にのりはじめていたわけである。「染色ヲ矯メ紡績ヲ正シ機具ヲ改メ職工ヲ新ニシ」というさきの記述は、嘉右衛門のこうした織元としての問屋制家内手工業のすすめかたを表現したものであろう。
この生産形態は、少なくとも明治一〇年代までつづいていたらしい。孫の半左衛門が明治一〇年の内国勧業博覧会に出品したときの出品目録によれば、「出品人中村半左衛門」の博多男女帯地の「生産者」は「清水きん」であったという。おそらく賃機の織子であろう。このときの年間生産高「一〇二〇本代金三五七〇円」の中村家の経営は、清水きんをその一人とする大勢の織子を組織した問屋制家内手工業形態をとっていたと見てさしつかえないであろう。(『内国勧業博覧会出品目録』明治一一年)
こうした問屋制家内手工業は、畑作地の生産力の低さと封建貢租の重さのため、農業と小規模副業だけで生計がなりたたず、豪農の前貸にたよらざるをえない零細農民が、多摩の村々に大勢いたからこそ、成立しうる生産形態であった。その点で、本百姓中心の村落社会が、豪農と零細農民への分解によって大きくくずれつつも、いまだ封建制が解体しきらない、封建末期~近世末期にふさわしい生産形態だったわけである。
それは欧米資本主義経済の圧力のもとで、日本各地の村々が上からの殖産興業政策によって近代産業~資本制生産の波にまきこまれるまで命脈をたもった。文化文政期~明治初期の数十年間、こうした賃織生産をやむなく必須とする畑作地零細農民と、これを前貸的に組織する豪農織元経営によって、一つの新しい経済段階がつづいたのである。在村文化の繁栄は、まさにこの経済段階のうみだしたものであった。中村嘉右衛門を一つの代表例とするような市域村々の豪農連は、こうした経営を基礎に力作・致富をすすめ、不老軒うたゝらの世代のあとをうけて、発展期在村文化のにない手となっていったわけである。
やがて登場する近代の資本制生産と市民文化は、この豪農経営と在村文化ををおしのけるようにして、農村・都市をふくむ全国的な規模で展開する。在村文化は、封建社会解体期~近代社会成立直前期に光芒をはなったものであった。昭島市域の村々は、経済的にも文化的にもまさにこの時期にあったのである。