A 『四季のはな』の俳諧論

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 昭島市域に、在村俳人がおおく輩出していたということは、日本文化史全体からみれば、文化の地方化~農村化~庶民化がひろくすすんでいた、ということであった。日本全体の文化のこうした新しい変化は、在村俳人たちのばあい俳諧や文化ひいては社会秩序全体にたいするどのような考え方の変化によってすすめられたのであろうか。市域にのこされている限られた史料のなかから、その一端でもさぐってみよう。
 上川原村名主七郎右衛門家(現指田十次家)には、横帳の半分の大きさの小冊子で、『四季のはな』となずけられた「友之」署名の俳論がある。年代は記されていないが、「閏弥生」とあるので天保元年か万延元年のどちらかであろうが、化政期の俳書類といっしょに保存されていたので、天保元(一八三〇)年の可能性の方が高い。何かの写しかどうかも不明である。考え方そのものも決っして独創的なものとはいえない。あれこれ学んだところでの自分の考えを手控えしておいたものであろう。いずれにせよ、この時期の在村俳人の俳諧についての思想の一端をあらわしていることになるだろう(史料編一六九)。

『四季のはな』

 まず俳諧とは、ほかのすべてのものをこえる絶対の価値をもつものだとは、考えていなかった。俳諧に正風(蕉風)の芸術性~美をもとめることは、
  業(なりわい)のいとまに四時の風景をながめ正風の一躰を整え……身の業をいささかおこたらず、只隙(ひま)を費さず、あまれるちからをもて朝夕のたのしみとなすこそ、誠のは(い脱カ)くわい(俳諧)とぞ言侍(はべ)りける……
ということであった。この世であたえられた日々の生業を正しくつとめた上で、無駄についやされるかもしれない暇(ひま)の時をつかっておこなうべきものが俳諧であった。日々の生業のなりたちと、それをとりこんでいるこの世の秩序をありのままみとめて最高の価値をおき、これに適合して世俗に生きることが基本だと考えていた。そのうえで、世俗のなかにみやび(雅)をもとめる心こそが、俳諧の神髄だとしていた。こうした心「俗中の雅」をふつうには「風雅」とよんでいた。
 逆に、俳諧そのもの、美そのものだけに絶対の価値をおき、生業を二の次にしてこれを追求する生き方は、正統秩序のなかではゆるされないと考えていたわけである。この生き方を一般には、風雅に徹しすぎた「風狂」として、真の「風雅」とは区別しようとしていた。
 こうした「風雅=業の俗中の雅」の考えは、上から説かれる農民道徳論の「俳人は陰気になりて行脚を心がけて、皆巳が職分を怠る様になるは甚心得違ならずや」という在村俳人否定論と基本では同じである。しかしちがうところは、在村俳人たちが、おのが職分を怠って「心得違」の「風狂」に生きることすなわち正統秩序をはずれることへの魅惑を十分に知りつくしたうえで、なお現に自分が俳人であることを積極的に肯定していたことである。
 実際、「業のいとま」の限界をこえて「風狂」に生きた在村俳人の例はかれらの身の廻りに少なくなかった。農業よりもひまが多いからといって豆腐づくりをなりわいとした不老軒うたゝはその市域での例であろう。また「産を破りて風狂し、家をわすれて放蕩せるもあり」(『近世畸人伝』)という風狂人を、「奇人」=自由人として肯定しようとした人々の気持も同じである。さきにも紹介した『新撰俳諧三十六句僊』のなかの入間郡中神村音好(浅美氏)も、絹商人として狂歌・俳諧の風雅の道にあったが、中年期にいたると風狂に徹する心やみがたく、家産をかたむけたまま三七歳のとき家を息子にゆずって出奔し、西国・北陸・東北地方などを一三年間放浪行脚のすえに、故郷へもどってきた、といわれている(入間市浅見彦三郎氏談)。「狂」とは、理想をつらぬこうとすると秩序をかえねばならないが、いまだ秩序そのものの否定にはいたらず、秩序に反しても理想に生きようとする自分を、秩序からはみでた例外者とみなす、一種屈折した秩序批判の表現であろう。(「狂」の解釈は、鹿野政直『日本近代思想の形成』参照)
 在村俳人が行脚にでることを、「職分を怠る…… 甚心得違」だと全面的に否定するのが上からの農民道徳論であるとすれば、「奇人」・「狂」という一種の秩序批判をとるのが、在村文化をになう人々の美意識~生き方~秩序観であったわけである。
 しかしそれは、もちろん一種の批判ではあっても、全面的な批判ではない。風狂に徹する「奇人」にあこがれと尊敬の心をもって師とあおぐことはよいことであった。市域の俳人たちの師匠格は、風狂の自由人不老軒うたゝであった。しかしこと自分のばあいには、自己規制をして風狂にのめりこむぎりぎりのところで止まらねばならないと考えた。自分にとっての俳諧は、「業のあいま」に朝夕のたのしみとするのが一番だ、と言いきかせていたのである。
 こうした在村俳人一般の、価値のつかいわけをする考えは、結果として封建社会に適合してゆく精神世界--士農工商の身分秩序のなかで職分を守ることに最高の価値をおく精神世界--をこえるものではなかった。しかし、かれらが、そのような俳諧の対象となるべきものを、つぎのように考えているとすれば、かならずしも既成の精神世界への適合だけにとどまるものではなくなってゆくであろう。すなわち『四季のはな』は、こうもいっている。
  花鳥天象はた世の俗事を旨とし、寒暖の季候をおもひて目に青葉山ほととぎす初鰹と古き高吟、むべ成かな高低貴賤清汚を隔てず、目に見、耳にきゝ、鼻にかぎて心に浮みたるぞ発句なるべし、素(もと)是ほどをたくみ、容(かたち)を作れるものにあらず……
 ということだった。対象は、だれにでも見えている自然であり、どこにでもある世の俗事であった。これらの対象を、自分自身の感覚をとおしてつかんだときに、たくまずして心に浮びでてくるものをそのまま表現したものが句であるべきだった。おのれの感覚のみを確かなものとして「清汚を隔てず」に対象をつかむことは、「高低貴賤」だれにでもできることであった。その隔てをしないことこそ俳諧の俳諧たるゆえんであった。高く貴いところから清いものだけを対象とすること、それは文芸でいえば貴族だけ武家だけの高踏的な漢詩文・和歌にあたるだろう。これらにくらべて、「心に浮みたるぞ発句なるべ」き俳諧の方がすぐれている、というのが在村俳人の気持であった。
 こうした趣旨を別にかきとめたものが拝島村にのこされていた。つぎのようなものである。