寛政一一(一七九九)年、拝島村青木氏のところへ五日市の「酒家小兵衛」俳号「山市庵梅志」という人物が遊びにきていた。ごく初期の在村俳人の一人であろう。青木氏の案内で村内の龍津寺をおとずれ、その風景のすばらしさに感じ、『自然楼記』という一文をのこした(史料編一七〇参照)。
その一〇年ほどのちの文化六(一八〇九)年、公務で拝島にやってきた南畝=蜀山人大田直次郎がこれを目にとめて、『調布日記』と名づけた自分の日記にかきとめておいた。おかげで昭島~多摩郡の在村俳人の考えの一端をうかがうことができる。梅志は、漢詩文も和歌も何も知らない自分だがと謙遜しながら、この絶景を表現するには、俳諧こそがふさわしいという意味のことを、つぎのようにのべている。
寛政十一年のことし龍津精舎の閑亭に登る、しかるをここの風景に酔ふて、楼名の二字をさがす、楼に文あり閣に詩あり、今文を学ばず詩をしらず、此処に俳諧なからん、もと予が老病の痩我を起して、俗談平和の言語をもて、拙き文章を草稿す…… (『新百家説林 蜀山人全集』一)
ひくいながらも武士の身分にあり、江戸の中央文化の真只中に身をおいていた南畝は、梅志のこの序文にはじまる俳文を、「よむにたらざれども地名の考えもあればうつし置なり」という評価でしかみていない。
しかし、梅志がここにいう「俗談平和の言語」とは、化政期前後の俳諧庶民化運動の旗手たちが、和歌にたいして俳諧の優越性を芭蕉に託して主張するときの重要な標語であった。そのひとり方円斎梅室(一七六九~一八五二)は、
歌人より俳諧をいやしむるは、唯俗談平話を賤しむなり、其賤しむものをたすけて、風月の為に用るは俳諧なり
(『梅室随筆』、『俳諧文庫』第十八編所収)
同じく麦慰舎梅通(一七九七~一八六四)も
たまたま和歌をよみ出るものは、産業にうときすたれものにて、和歌は堂上(朝廷の貴族のこと)はじめいとまある豪商・富農・神職・隠居のわざにきは(極)まれり……蕉翁是を歎きて日本に備へし風雅をもっぱらにせんと、俗談平話を用い、一文不通の輩をみちびきたもふも尊むべし (『麦慰舎随筆』、同前)
歌人がいやしむ「俗談平話」の俳諧の道にたつことは、「一文不通の輩」の立場、貴族や非生産的な豪商農などの「産業にうときすたれもの」とは反対の立場にたつことであった。一文不通の、在村俳人の言葉でいえば、「身の業をいささかおこたらず、只隙を費さ」ない勤勉な生産者の立場である。さきほどの「業のいとま」という生業優先論は、この世の秩序の一定度の肯定を意味するとともに、一方では、自分たちは「産業にうときすたれもの」ではないという、生産に従事する庶民の一種の誇りの表現でもあった。俳諧の道にたつこと、たくまずしてそれは、庶民の正統性の静かな宣言であったわけである。こうした論理は俳諧だけではない。和歌や漢詩文にとりくむときはまたそれなりに同じ論理が別の表現で考えられていた。いずれにせよ在村文化全体にかかわる庶民の正統性の主張であった。