C 俳諧に垣間みる秩序観変容の萌芽

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 『四季のはな』をかきとめ、『自然楼記』をのこしていった在村俳人たちは、「身の業をいささかおこたらず」に、「花鳥天象、はた世の俗事」をありのまま見つめ、心に浮ぶままを庶民の「俗談平和の言語」にあらわし、さまざまの句をつくりあげていった。
 泥田の田螺にひきつけては、世に生きることのきびしさや、そのなかでの生き方の多様さに心をとめた。
  世の風を知らぬ田螺の住居哉
  浮草や世はさまざまの田螺鳴   (俳号記入なし)
時には生業をはなれて楽しみを追いながらも、生業あってこその一日の楽しみであることを悟ることもあった。
  一日の世は面白き汐干哉     (俳号記入なし)
そういう悟りが、庶民のだれにでもあるだろうことを思いやって、言葉で普遍化した句であろう。
 ありのままを見つめる庶民の心は、一転すると幕末の世相をきびしくとらえる姿勢をみせた。たとえばなにげなくつづく歌仙の途中にこうよみこんでいる。
  夢の世を同じ心で暮しけり    友枝(上河原)
    笠にかくれて関の抜道    里耕( 〃 )
  交易の場所は格別賑はで     指月( 〃 )
    近くきこへるあらなみの音  月                          (『無題歌仙』)
 笠に顔をかくしながら、関所をだしぬいて抜道を通りぬけてしまう、おそらくは浮世をぬけて道ならぬ恋に生きようとするものたちと、同じ心でこの世を生きているのだ、という句、それにつづけて、横浜開港の不入気から、外国の圧力・社会秩序動揺の予感までもよみこんでしまっている。
 また生業にはげむことは、さだめられた世のならいでもあり、産業にうとからぬ庶民の誇りでもあったが、農繁期に天候急変にかこつけ、お上(かみ)禁制の花札を手にすることもあった。
  こっそりと時雨(しぐれ)の隙にかるた取(ひき)  規隆
                              (以上、上川原町指田十次家、指田万吉家所蔵より)
禁制の賭博に興ずることも、庶民の俗事であり、楽しみである。それをありのままみとめて良しとする句である。
 こうして俳諧は、くずれゆく幕藩制封建社会の終末期における庶民の正統性の静かな宣言であり実践であり、だからこそいっそう、「たくみに容(かたち)を作れるものにはあら」ざる「俗談平話」のものとなった。半世紀以上あとの明治俳壇が、これを「月並調」として批判し去ることは容易であったろう。しかし在村俳人の「月並」における、庶民としての正統意識を直接の土台にすることなしには、明治俳壇も明治文学全体も、国民的なものになりきるに容易ではなかったであろう。昭島市域~多摩地方そして日本全体での在村文化の展開は、国民文化成長期にいたる重要なさいごの段階であったことになる。
 ところで、俗談平話を旨として一文不通の庶民に風雅を解放する道をひらいてくれた元祿期芭蕉のあとは、在村俳人からみると、
  元祿のむかしをそむ(背)き、其旨趣を失ひ千際はたらきのみにうかれ、おのづから拙き事の多かりきことゝは成ぬれば……                                     (『四季のはな』つづき)
 であった。世の中のことは、過去にさかのぼったある時期には正統なものであった、俳諧では元祿期の芭蕉がそうだった、ところがそれ以後現在に近づけば近づくほどすべてが悪くなり堕落してきている、その極に達している現状を変革して、過去の正統に復帰しようという論である。一種の復古論である。過去の正統を挺子にした現状批判の一つである。在村俳人たちは、自分たちの求める心情と生き方を、十分に表現できるまったく新しい文学を生みだす力は、まだもっていなかった。とりあえず過去の文学表現のなかから、新たによりどころとするにたる正統をみつけだす段階だったわけである。それが「元祿のむかし」の「正風」であった。
 そのうえ現状批判としての復古論は、たんなる過去の正風のそのままの復活ということではなかった。時代は一〇〇年のへだたりがあり、かれら自身豪農として大きく変貌をとげたうえでの在村俳人であった。その変貌を可能にするだけ、村落構造・社会構造にも大きな変化がつづいていた。そうした在村俳人の「時代」の変化をはっきり意識したいわば歴史意識をくみあげてのことであろう、さきほどの梅通は、天保年間に生きるべき俳諧についてこうのべている。すなわち、蕉翁にとっては元祿の正風が俳諧の正統だったのと同じく、「蕉翁の極意にかなふもの」は、
  尤もなるかな、時・人同じからねば、安永は安永、文化は文化、天保は天保の風調なり。……されば炭俵(芭蕉の代表句集の一つ)とはいふべからず、誠は天保風躰なるべし。               (梅通、同前)
といいきっている。変りつつある庶民の復古は、たんなる復古ではなかった。過去の正統の、いわば主体性の部分の復活であり、それによる現状批判の開始であった。時・人の変化はもはや止る所を知らない。横浜開港による社会秩序動揺の予感や関所抜けが句によみこまれていても、それが幕末の在村俳人にとっての正風=正統だったのである。
 こうして「高低貴賤清汚を隔て」ない昭島在村俳人の小俳諧論~芸術論は、当代庶民の正統性の論理として普遍するものであった。しかし、その隔てをしないということは、高低貴賤清汚の別をなくす、ということではなかった。その点ではむしろ、その別をみとめたうえでの「隔てず」であった。在村文化は、封建社会の自然観・秩序観と全面的にかわるものを構想できる段階にはまだいたらなかったのである。それは、幕末~維新期の変動をとおした社会的緊張のなかで、在村文化の土台が開港・世直しなどでくずされてゆく過程に到来する。前項の槐堂中村半左衛門が、句控帳に膨大な数の句をのこす在村俳人であると同時に、しだいに執中舎-執中学舎-成隣学校-広敬塾を歩みながら国民教育・青年専門教育をすすめ、また改進党系の立場から自由民権運動に入っていったのは、その一例であろう。
 昭島在村俳人の俳諧論と秩序観は、封建社会の終末期を体現しつつ、次の新しい時代のどのような時・人の変化にも即応できる精神の姿勢が、ほぼととのったことを示すものであろう。