A 昭島をとりまく地域経済圏

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 はじめに、季翠中村嘉右衛門と同じような織元経営が、多摩郡のどのような範囲に分布していたかを見てみよう。
 織元経営がいとなまれている地域には、織子となる零細農民のほかに、織物加工過程とくに糸の染色にかかわる紺屋が、広く存在していた。織子は、もよりの紺屋に自家製糸や織元からの前貸糸を染めさせ、染め賃は、織賃に加えて織元が納品とひきかえに清算する仕組がとられていた(『八王子市史』下、九二九頁ほか)。紺屋の分布する地域は、ほゞ織子がいて織元経営が成立している地域にかさなっていたことになる。
 すでに第三章第一節でのべられているように、多摩郡紺屋仲間にぞくする紺屋のいた村は、市域では中神村・拝島村の二ヶ村三名、市域外では、そのほとんどが、多摩川南岸では八王子宿とその北部の多摩丘陵の小谷に分布する村々、および五日市・伊奈など秋川流域の村々、多摩川北岸では、川崎から昭島をへて柴崎にいたる地域の村々にかぎられてくる。
 これらの分布圏をしめすと第1図のようになる。

第1図 多摩郡紺屋仲間集住分市

 こうした紺屋たちは、たとえば拝島村の「利右衛門店(たな)紺屋仕候(つかまつりそうろう)勇右衛門」のように、店借りをして紺屋をいとなむ百姓身分のものが中心であったが、その上層は、中村嘉右衛門のような織元経営者たちと同じく、在村俳人の一翼にもくわわっていた。さきの『新撰俳諧三十六句僊』には、「世の染物を家職とす」る寿庵賀松(比留間氏、谷ヶ貫村)という人物があげられている。おそらく入間郡紺屋仲間にふくまれるものであろう。零細農民や織元経営者における織物生産の発達を背景に、経済的上昇をとげつつ在村文化のにない手になっていたのである。
 嘉右衛門らの織元経営がなりたっている地域は、織元や零細農民の生産する織物を仲買・集荷する「縞買(しまかい)」が活躍する舞台でもあった。集荷した織物を、八王子市場へあるいは江戸へ直接に出荷する商人である。八王子市で特権をもって仲買をおこなっている旧来の「町方縞買」(宿方縞買)に対抗して成長した農村出身商人であるため、これを「在方縞買」とよんで区別していた。この在方縞買の代表例が、中神村の中野久次郎家である(中野久次郎家については第三章三節参照)。
 ここで、昭島の在方縞買が目立ちだす寛政期(一七八九-一八〇一)から、明治初年までつづけて八王子市へ出入りしている在方縞買のいた村の分布を見よう(『八王子織物史』上五七九頁の表から作成)。
 全体として、入間郡・高麗郡までにおよぶ広い範囲となるが、飯能・青梅などとびはなれた地域の縞買のばあいは、おのおのの市場を主にしながら八王子へも出入しているものである。これをのぞくと、昭島の村々のような、八王子にたよっている縞買の居住地域がわかる。それによると、在方縞買の集中地域は、多摩川北岸の昭島・立川地域、南岸では秋川沿いの地域および八王子北方多摩丘陵地帯(一部分は南方)にかぎられてくる。そのほか相州北部にも点在はしているが、集中地は右のとおりである。略図に示してみよう(第2図)。

第2図 多摩郡主要在方縞買集住地分布

 こうした在方縞買も、織元・紺屋などと同じく、在村文化のにない手であった。むしろ文化面では、仲買の経済活動をとおして早くから精神空間をひろげ、江戸町人の中央文化をとりいれる先駆の役割をはたしていた、と考えた方がよいであろう。昭島での代表的な縞買中野久次郎のばあい、具体的な俳号は不明であるが、俳諸関係の短冊がのこされている。季翠らと同じく、昭島の俳諸など在村文化の中心的なにない手の一人であったことはまちがいないであろう。前述の入間郡中神村の在村俳人栲廼屋音好の「肥後御屋敷へ御出入にて絹布を鬻(ひさぐ)」という姿を、在方縞買出身の江戸売り絹商人の一つの典型として、久次郎にかさねあわせて見ることもできよう。
 こうして昭島の村々をふくむ多摩郡・入間郡などでは、織元的な豪農、縞買的な豪農商、および紺屋稼ぎの農民らが、零細農民の農間余業による織物生産の展開をそれぞれの業種なりのしかたで基盤としながら、経済的に上昇をとげつつ在村文化の有力なにない手として登場してきたことになろう。
 ところで先の紺屋と縞買の分布をくらべてみると、前者が昭島の上・下流の川崎村・芝崎村までひろがっていること、多摩丘陵小渓谷奥の上恩方村あたりまでのびていること、八王子南部にも一部がつづいていること、などをのぞくと、ほとんどの分布範囲がかさなっていることがわかる。季翠中村嘉右衛門のような織元経営の分布も、おそらく紺屋・縞買分布圏とほゞ同じであったと推定してよいであろう。(こうした経済圏を、経済史の方では「豪農的地域市場」などとよんでいる。)
 こうしてみると、昭島の村々は経済的には、少なくとも紺屋・織元・縞買がかさなって分布する、(一)八王子北部多摩丘陵地帯(二)秋川沿岸地帯(三)多摩川北岸沿い昭島市域辺の三つ地帯からなっている多摩郡織物生産地帯の一角をなしていたことになる(『八王子織物史』は、多摩と、隣接する甲州・相州山間部を一つの「織物生産地帯」とみている。)。昭島市域村々の豪農の文化活動が、こうしたいわば多摩経済圏ともよぶべきところを足場にした経済的上昇にのって展開したものであるとすれば、経済圏と文化圏とはどのような深い関係にあったのだろうか。