B 俳諧をめぐる文化交流圏

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 奉額句合・十評発句合などの句合は、前にのべたとおり、直接声をかけたり募句の刷物をつくって配布したりできる範囲から、参加者があつまってなりたつものである。一ケ所を拠点に配布・募句をすることも、数ヶ所のおもだった俳人宅まで拠点をひろげることもある。いずれにしろ、日常的な文化交流があってのうえでできることであろう。ここでは、市域内の句合への参加者居住村分布を、文化交流圏をしめす一つの目安としてとりあげてみたい。(以下史料編第十二章一参照)
 もっともせまい地域でなりたつ句合は、たとえば、上川原村の「三好・規隆・寿松・友子」の『歌仙』のように、一村内かぎりのものである。日常的にもっともひんぱんにおこなわれる文化交流の最小単位であろう。また「里耕・友子・英枝」の『無題句合』のように、隣接する上川原村-宮沢村にまたがるもの、『春五題句合』のように上川原-中神-郷地-立川のように、市域をこえても隣接する村にとどまっているものもあるが、これも一村内かぎりの最小単位とほぼ同じに考えてよいであろう。
 つぎに、村内ないし隣接村の最小交流圏をこえて、現市域全体がふくまれるような句合のばあいは、現市域村々だけでまとまるという例はみられない。一挙にかなりの遠方の村をふくむ村域に拡大している。しかもこうした事例が史料的にはもっとも多く見出されるのである。たとえば『山王宮奉灯秋乱題句合』では、こうである。(山王宮は上川原村の氏神社)
 拝島-上川原-宮沢-中神-福生(福生市)-館(八王子市)-大久野(日の出町)
『秋之題』のばあいもこうである。
 拝島-上川原-中神-郷地-宇津木(八王子市)-千人町(同)-川原ノ宿(同)-福生(福生市)-熊川(同)-平井(秋川市)
『(無題句合)』(中村保夫家所蔵)もこうである。
 拝島-上川原-大神-中神-郷地-立川-砂川(立川市)-榎戸(国分寺市か)-大久野-犬目(八王子市)
 これらの村を図示すると第3図のとおりである。

第3図 上川原村・大神村句合参加村落分布例

 さらに大規模な句合になると、上川原村の友子・俊子・規隆が催主となった『十評発句合 都岐鳥』がある。市域八ケ村をふくみながら、よりいっそう広い地域からの在村俳人の参加がみられる。そのほとんどは、つぎの範囲内にほゞふくまれている。
 北方向 日光道方向に熊川-福生-川崎-二本木(入間郡)(約三里まで)
 西方向 秋川・五日市街道ぞいに、平井-大久野-伊奈(五日市町)(約三里まで)
     多摩川をこえた丘陵地帯に、滝山-平-宇津木-石川-粟ノ須-宮下(八王子市)(約三里まで)
 南方向 八王子宿とその南の小比企-宇津貫-大舟-館(八王子市)(約三里まで)(一ヶ村だけとびはなれているが、相州高座郡の田名約六里も)
 東方向 甲州街道方向に立川-中河原-染谷(府中市)。五日市街道方向に榎戸(国分寺市か)、(三~四里まで)
 このなかで、参加村名が密にあつまっているところは、市域とその隣接および多摩川の昭島対岸の多摩丘陵地帯の村々である。一村で投稿入選者の人数がおおいところ、つまり上川原村催主の呼びかけにもっとも積極的に応じて大勢が秀れた句をねりあげて応募した村々も、市域隣の立川・福生、および八王子・小比企など多摩川南岸方向である。催主の要請に応じて評者となった一〇人も、市域外では立川・八王子・小比企・中河原など、多摩川ぞいと多摩丘陵にある村々の在村俳人である。こうした地域を略図化すると第4図となる。

第4図 上川原村『都岐鳥』参加者分布

 このような一村域~隣接村域をこえた在村俳人の文化的な交流圏は、甲州街道・五日市街道・日光街道などにそって延びているところをのぞくと、さきほどの在方縞買・織元・紺屋の分布する経済圏すなわち昭島市域をふくむ多摩経済圏とほぼ一致することは明らかである。この経済圏と文化圏との一致は偶然であろうか。各地俳人の生業が具体的にほとんどわからないので季翠中村嘉右衛門の事例だけからの推定ではあるが、経済圏と文化圏はふかくむすびついたものと考えるべきであろう。
 前にのべたように嘉右衛門の織元経営につかわれる原料生糸のおおくは、八王子周辺の農村に活動する生糸商から購入されている。賃織によってえた生産物が、やはり八王子市場に出荷され「嘉右衛門織」として評判の商品になっている。賃織生産にかかせない紺屋稼ぎも、この地域に活動するものが一つの仲間をつくっている。こうした日常的な経済関係によってたっている嘉右衛門が、同好の士を村のそとにも求めようとしたとき、だれよりもそれは、こうした日常的経済関係でむすばれた村々の、まずは同じ立場の力作致富型の豪農であったことは、ごく自然のことであったろう。それはもちろん嘉右衛門のみならず文化文政期ごろの経済的上昇の波にのって力作致富をすすめながら在村文化のにない手となっていった豪農一般に共通することであったろう。
 文化文政期日本各地の庶民文化の展開は、地域経済圏にかさなった地域文化圏の形成という形をとって進んでいたのである。昭島市域も、多摩の地域経済圏にかさなる地域文化圏の一角をなしながら、いわゆる在村文化を成長させつつあったのである。
 その略地図をえがいてみると、第5図となる。

第5図 昭島からみた多摩の地域経済圏=文化圏

 多摩地域経済圏=文化圏は、あくまで昭島市域の村々をきわだたせる範囲でみたものである。ここで視点を、多摩地域経済圏=文化圏のおそらくは中心であろう八王子にうつして考えてみよう。