第6図 西武州北相州東甲州経済圏(五郎吉商圏は『八王子織物史』による。)
一方、八王子を中心とする文化圏をあらわす指標として、昭島市域からも多くが参加している『春山集』をとりあげてみよう。
『春山集』は、蕉風復興運動の一角をなす春秋庵白雄門下の榎本星布尼の長寿を祝した句集であるから、江戸はもちろん東日本の各地から春秋庵系の宗匠格・在村俳人を中心に多数の句がよせられている。しかしその分布があきらかに一つの地域を形成しているとみられるところはつぎのとおりである。
まず武州では、北は入間郡扇町屋・高麗郡飯能・多摩郡村山あたり、東は多摩郡高井戸・小金井、南は都筑郡長津田、西は高尾・川口・大久野あたりまでである。相州は、橋本・渕野辺から、さらに厚木・伊勢原・大山、東海道ぞいの藤沢・大磯までひろがっている。甲州では都留郡の吉田・暮地・猿橋などの郡内地方から、甲府盆地東端の勝沼・菱山までである。
このうち、伊勢原・大山・藤沢などは、大山・江の島の参詣道や東海道にあって、また大磯は鴫立沢の鴫立庵をもつ和歌・俳諧の名所にあって、ともにそれぞれ独立した白雄門の俳諧圏ないし南相州の文化圏をなしていたところで、八王子圏の外から参加したものとみられる(『藤沢市史』・『神奈川県郷土資料集成』3参照)。
また甲州都留郡も郡内織の産地として一つの経済圏~文化圏をなしており、やはり外から参加したものであろう。しかしこのばあいだけは参加のしかたがきわめて密で、二〇ヶ村三五名が集中している。ここだけは、在村俳人たちが経済的にも文化的にも八王子ととくに深い関係をもっていたがゆえの、外からの参加であろう。
八王子と郡内地方とのつながりは、すでに近世初期の八王子千人同心隊設置のころからみられたものである。『落穂集』は、千人同心の生活について次のように記している。
同心共は常々甲斐の郡内に往来し、絹帛の類をはじめ彼国の産物を中買し、江戸に持出売ひさぐをもて、常の業とせしめ……(『改定史籍集覧』一〇)
また郡内地方からも、「絹紬木綿、村方買出武州八王子市にて、甲州都留郡上野原宿にて売買仕候、農業仕候間に仕候」ような在方絹商人が活動していたことが知られている。(伊藤好一『近世在方市の構造』一三九頁より)こうした経済的な結びつきのうえに、郡内在村俳人がまとまって星布尼の影響下にあり、『春山集』への参加がおこなわれたものであろう。夏狩村の杯度のように、仲間を代表して漢文の「叙」を記している白雄門下の有力在村俳人もいた。
『春山集』には、さきにあげた村名のほかに、駒橋・花咲・葛野・猿橋などがみられる。これらの村は、春山集から二〇数年後、天保飢饉の最中の天保七(一八三六)年、幕府に深刻な動揺を与えた「郡内騒動」がおこったところにぞくしている。郡内騒動の米商人・高利貸など打ちこわしの情報は、いち早く多摩郡の村々にも伝わって、さまざまな影響を与えたが、そこには、化政期以前からの経済的交流・情報交換に加えて、俳諧の師弟・同門関係など文化的情報網が作用していたことも想定してよいであろう。化政期以降の例でも、たとえば『高尾山永代奉額句合』に、「郡 谷村一生」ほか一七名が、武州以外ではもっとも多い人数にまとまって参加している。判者の一人菊守園見外も郡内猿橋の人である。これらのことも含めて『春山集』参加者の集住地域を示すと第7図のとおりである。
第7図 『春山集』参加者
こうしてみると、北相州・東甲州を一部にふくみながら、八王子を中心に、武州西端部を統一する一つの文化圏がなりたっていたことが想定できる。いわば「西武州文化圏」である。この西武州文化圏が、さきほどの経済圏、すなわち西武州経済圏とほぼ一致することは、一目瞭然である。昭島からみた小範囲の多摩経済圏=文化圏のばあいとおなじく、八王子を中心とするより広域の西武州全域のばあいも、経済圏と文化圏がほぼ一体化していたことがわかる。
多摩レベルの小地域文化圏に対して西武州レベルのこれは、中域文化圏というべきであろうか。中域文化圏のなかにいくつか小地域文化圏がふくまれるのである。とすると、西武州中域文化圏のなかに、多摩のほかにどんな小地域文化圏があったのだろうか。
昭島市域の在村俳人の名が、他地域の俳書類に多くあらわれるもう一つのばあいとして、青梅の宗匠、好々居臼左(横川氏。青梅宿の薬種商)との関係があった。臼左は幕末から明治前期にかけて活躍した人であるから、時期が『春山集』とかなりずれてはくるが、その門人録(横川邦三郎家所蔵)によって、青梅の俳諧勢力圏の目安をえてみたい。
その分布はつぎのとおりである。北は武州秩父郡の名粟村から高麗郡飯能・高萩、入間郡入間川あたりまで、東は三ケ島・山口・柳瀬(以上所沢市)・砂川(立川市)まで、南は多摩郡の坂浜(多摩市)・日野・八王子、西は多摩川の上流の氷川・御岳から、大久野・五日市までである。略図化すると第8図のとおりである。
第8図 青梅好々居臼左門人分布
これをみると、西武州中域文化圏に想定した地域のほぼ北半分をしめていることがわかる。そのなかでも一村につき四~五名をこえる密な地域をみると、北は飯能・成木、東は狭山丘陵西端の箱根ケ崎・殿ケ谷、南は昭島市域の拝島、西は大久野・御岳までの二~三里以内にとどまる。これが多摩郡北端から入間郡・高麗郡西端をふくむ青梅文化圏の実像とみてよいだろう。
青梅を中心とした経済圏を知る史料は少ないが、天保三(一八三二)年の青梅と隣接する新町との市日争いの訴訟にかかわった村で、青梅側についた二二ケ村と新町側についた一八ケ村の分布をみると、多摩川にそってほぼ一~二里以内である。青梅・新町の市にもっともふかい利害関係をもつ日常時な経済圏であろう。天保八(一八三七)年の新町村『諸産物諸品書上帳』は、紬縞・青梅縞・木綿縞を「当村併近の村々にて織出し、青梅村・新町村・所沢村・八王子宿右四ケ所市場、其外川越・江戸表・京都・大坂諸国へ売捌」いていたとつたえている(『定本市史青梅』四五二・四七九頁による。
また青梅の在村文化の代表的なにない手たちの生業をみると、凉宇根岸孫兵衛は豪農で青梅縞問屋、典則根岸太兵衛(太平)は町年寄でやはり青梅縞問屋、綾繁小林重郎左衛門もおなじで、とくに三井越後屋の集荷下請の問屋としてのれん分けをうけていたという(同前)。いずれにせよ、青梅の在村文化が、周辺農村の織物生産を土台とする青梅市の問屋的な町方縞買によってになわれていたこと、つまり青梅小地域経済圏の上に一つの地域文化圏をなしていたことを物語っている。