D 拝島村を中心とする小経済圏=文化圏

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 八王子と青梅のほぼ中間に位置する昭島市域のばあい、八王子圏の重要な一角をなしているとともに、青梅圏とも浅からぬかかわりをもっていた。二つの経済的文化的吸引力が部分的にかさなる場所だったことになる。それのみならず、とくに拝島村のばあい早くから市がひらかれていたうえに、日光道の宿場として、また日光道の多摩川の渡し場として、さらに多摩川・秋川の合流点として、小さいながらも青梅・八王子からあるていど自立した経済の一拠点であった。天明年間までは月二度の織物市がたてられていた。さらに筏による材木の流通、筏の上荷となった木炭や建築資材の集荷、筏師の宿泊場、街道筋としての旅篭渡世・遊興場など、いずれも拝島が人馬往来と物資・貨幣集散の一拠点として町場化してゆく要因となっていた(第三章一節参照)。絹織物の集荷市としての機能は、八王子・青梅などの影響でかげがうすれたが、文化年間にはまだ、江戸の三井と直接取引をする集荷問屋らしき商人が三人いるていどの自立性は保っていたようである。(伊藤好一『近世在方市の構造』一〇五頁)
 こうしたあるていどの経済的な自立性は、文化的な面でも拝島に一つの吸引力をもたせることになった。青梅圏・八王子圏にはさまれながらも、一つの小文化圏の核らしき様相をもっていたのである。とくに庶民のあいだにあつかた大日信仰(大日如来の信仰)・大師信仰を背景に、かなり広い地域からの参詣者をもったのが、大日堂と本覚院であった。のちに第三節三でくわしくのべるが、文化圏のことだけでいうと、本覚院に嘉永三(一八五〇)年の日附をもつ「大般若波羅密多経(だいはんにゃはらみたきょう)」六〇〇巻があるが、この各巻末に、いくばくかの喜捨をよせて経典を寄進したものの名前と村名とが記されている。これらの村は、おそらく時の本覚院の住僧が行脚しながらまわったところで、寄進者は、拝島の元三大師の信仰を自己の精神のよりどころの一つとしたものであろう。これらの村々の分布圏は、青梅・八王子などとはやゝことなった独自性をみせているので、拝島を中心とした一つの小文化圏を示す指標としてとりあげてみよう。
 大般若経寄進者の在住地は、江戸・江州以外は武州の村々であるが、その分布圏はつぎのとおりである。
 北は中山・下直竹(飯能市)・扇町屋(入間市)・北東は勝楽寺(所沢市)・久米川(東村山市)まで、東は鈴木(小金井市)・恋が窪(国分寺市)・本宿(府中市か)、南は程久保(日野市)・鑓水(八王子市)・小比企(同)まで、西は、戸吹(八王子市)・五日市・小中野(五日市町)・大久野(同)・青梅までである。これを略図にしめすと、第9図のとおりである。

第9図 拝島本覚院大磐若経納経者主要分布

 これまでみてきた小地域圏のどれとも少しづつだがちがっている点は、飯能・青梅・扇町屋・所沢・府中・八王子・五日市(飯能と所沢は、その隣接村だが)という西武州の経済的文化的な核になる地域を、全部ふくんでいることである。俳諧と信仰とのちがいもあるであろうが、やはり拝島が経済的にも文化的にも、八王子・青梅などとちがうあるていどの独自性をもっていたことを示していることになろう。こうした小経済圏=文化圏は、拝島のほかにもたとえば、北方向に扇町屋・飯能・所沢・川越、東方向に府中など、くさりがつながるような形でつづいていたのではないかと考えられる。このくさり状につらなる小地域経済圏=文化圏を一つにおおう形で、中域の西武州経済圏=文化圏がひろがっていたのであろう。そのそとがわに接して、本庄などを中心とする北武州圏、厚木・藤沢などを中心とする相州圏あるいは甲州の郡内圏などが隣接していたものと考えられる。
 これら西武州圏とその隣接圏をさらに大きく一つにおおうような文化活動を考えてみよう。その一例として、昭島市域からも田中村吉従矢島定右衛門が参加していた和歌集『類題新竹集』がある。これは、府中大国魂神社の神官で国学者猿渡盛章・容盛らの樅園(しょうえん)門下の在村歌人(一部に武家もふくむ)ら五一五名の歌が武州・相州からあつめられたものである。その分布圏は、多摩小地域文化圏を中心に、東は、調布・牟礼(三鷹市)・溝の口(川崎市)から、豊島・品川・荏原など江戸近郊、南は神奈川・保土ヶ谷(武州)、三崎・浦賀・藤沢・大磯・小田原・湯本などほゞ相州全域、西は相州津久井郡から、高尾・駒木野・案下など八王子市域まで、北は青梅・飯能・秩父・川越・冑山(大里郡)から、行田・熊谷・本庄など中仙道ぞいに上州境までがふくまれている。国学~和歌という、在村文化としては俳諧より一つ高いレベルでみると、分布は稀薄であるが、あきらかに西武州を中心に北武州から相州まで、関東平野西端に南北につらなるくさり状の小文化圏を、一つにおおう形をとっている(『類題新竹集』については、第四節三を参照)。
 さらにこれを北にこえると、やはり上州の藤岡・高崎・安中・渋川など関東山地東麓線をくさり状に結ぶ小文化圏がおそらくはまとまって形成しているであろう上州文化圏にいたる。さきの『春山集』でも、絶対数はわずかだが甲州郡内地方についで他国参加者がまとまっているのが、大間々・草津・吾妻・新田など上州の村々である。(関東ではあと下野国の結城、足利がみられる)『春山集』も、ひろい意味では上州・西武州・相州全域をふくむ、いわば関東西部圏の一角にあって成立していたものとみてもよいであろう。
 ところで関東西部圏全体は、その中の八王子圏・青梅圏がそうであったように、絹織物特産地帯である。とくに江戸市場の周辺に成長した経済圏として、江戸地廻り経済圏ともよばれている。そこには、昭島市域の拝島をふくめて、近世中期に絹・紬市が第10図にしめされるように、一斉に開花したとされている(伊藤好一『近世在方市の構造』一二〇頁~一二二頁)。

第10図 天明期武州・上州絹紬市分布

 こうして、北は上州から南は西武州・相州まで関東西部圏にふくまれる中域文化圏・小域文化圏のくさり状態を、だいたいの見取図に想定してみると第11図のようになろう。

第11図 関東西端地域文化圏想定図

 ちなみに、この関東西端全域をおおうにたる文化現象を、昭島市域内であげるとすれば、山岳信仰の代参講が格好である(代参講については民俗編第六章を参照)。戸口への貼札などで、今も日常的にしたしまれている御岳山・大山・榛(はる)名山は、いずれもこの関東西部圏の周縁をおさえる場所にある。これは昭島市域村民の精神世界が、この地域のなかで一つ完結していることを象徴していようか。この世界を外へ一つひろげるものとして、成田・筑波山・鹿島・日光など関東全域の信仰地があり、その外に富士山・伊勢など日本全域をおおう精神世界があったわけである。市域村々にのこされている史料のうち、成田・鹿島・江ノ島・伊勢・高野山・金毘羅などをめぐる『道中日記』(上川原町指田十次家、中神町西野秀一家所蔵)は、村民が日常的な地域経済圏=文化圏の外を信仰の形をとってかいまみる機会が一生に一度ていどはあったことをしめしている。
 地域経済圏=文化圏の形成や、日本全域をおおう精神世界へのかかわりは、封建領主ごとに分割されている村落小世界のなかに束縛され、農業専念・貢租完納のみに生きるべきだとされてきた、幕藩制社会本来の農民像から、明らかに逸脱してゆくことであった。しかし、文化文政期から幕末にいたるあいだの時期においては、地域圏も、全封建領主の頂点にたつ征夷大将軍の政治都市である城下町江戸の吸引力からのがれて、経済的にも精神的にも自立しているわけでは決してなかった。また村落小世界の外の関東~日本全域の精神世界をかいまみる機会も、いまだ封建社会全体を支えている精神的権威の一つとしての正統宗教の範囲内にとどまるものであった。その意味で、在村文化の成長と地域文化圏の形成も、近世的な限界をこえるものではまだなかった。
 それが開港以降の封建社会解体終末期が急速に進行するころになると、新たな徴候をはっきり見せるようになった。昭島の村々でいえば、次のようなことである。
 この上州-北武州-西武州-北相州へつづく地帯は、以前から上州などの養蚕技術や信州上田の蚕種の伝播するルートでもあったが、幕末開港以後明治期にかけては、輸出生糸の横浜売込みルートになったのである。世界の資本制市場と直接結ぶ地域となったわけである。生糸売込みのルートを、さいきんは「絹の道」などともよんでいる。昭島は、いわゆる「絹の道」の中間点(ないし中継点)に位置することになったのである。そして昭島でもこのルートにのって横浜生糸売込みにかかわるものが現われてくる。中神村中野久次郎家・上河原村指田七郎右衛門家などがその好例である(両家の生糸商いについては第三章第三節参照)。
 また指田家のばあい明治期に入ってからも養蚕・製糸・生糸仲買・製茶・養豚などに経営を拡大していった。そしてその経営体を慶応年間に「勤耕亭」、明治三年頃「勤耕堂」、さらに明治六年ごろからは「勤耕舎」と名づけていた。そのなかは「勤耕舎製茶課」とか「勤耕舎養蚕課」というような企業体組織をとっている。拝島町榎本武家も「豊成館」と称していた。つまりみずからの豪農経営を資本主義に即応しうるものに変えようとする姿勢をもっていたのである。こうした企業家精神の勃興も、西武州~北武州~上州にかけてほゞ共通な形で見られるものであった。
 養蚕技術の面では、明治の話になるが、北武州の児玉町を発祥地とする新しい技術が伝わってきている。明治一〇年代から急成長をとげる養蚕改良結社~養蚕技術学校の開祖的存在であった「競進社」のものである。市域から加盟するものが大勢おり、上川原村のばあいその関係書類が「村内競進社員関係一切控」(明治二四(一八九一)年)としてのこされている(指田十次家文書)。また明治二七年度『競進社教授員派遣改良地一覧表』(埼玉県児玉町逸見茂治氏所蔵)によると、
  拝島村  臼井要作・嶋田成徳    外二十五名
  中神村  原茂佐助・西川伊左衛門  外十五名
同二八年度には、
  拝島村  臼井要作・谷部捨五郎   外二十九名
  福島村
     組 中島治郎兵衛       外五十八名
  郷地村
  福島村  岩崎良右衛門       外九名
であった。かなりの戸数が加盟して、競進社の温暖育を中心とする新しい養蚕技術を学び、新しい時代に即応しようとしていたことがわかる。昭島以外の多摩郡の村々でも同様のところが少なくない。(競進社については杉仁「養蚕改良結社に生きた人々--木村九蔵と競進社--『明治の群像』七所収参照)
 このように上州から西武州・北相州にかけて、生糸売込み・企業家精神・養蚕技術改良運動などをひろくふくむ「絹の道」地帯が成立したのは、横浜開港によって欧米資本主義経済にまきこまれる、という外発的受動的な要因によるだけではなかった。すでに近世中~末期の関東西端部に、商品生産・流通と在村文化の発達による地域的経済圏~文化圏があったからこそ成立しえたものであった。つまり、経済的にも文化的にも封建的分割支配下の村落小世界からときはなたれつつあった村人の精神が、幕末~維新期から明治にかけての諸変動にあるていどまで即応しうる態勢にすすんでいたからであった。
 しかし、それは同時に、村落小世界も広域の経済圏・文化圏も一様に、開港以降の急激な物価高騰や海外市況・為替相場の変動などに直接にさらされることを意味した。強力な欧米の資本力の深刻な影響を直接にうけることによって、製糸業などの企業化を志す豪農はたえず経営の浮沈におびやかされ、困窮した零細農民は生活のいっそうの破綻に追いやられるといった状況が、全域にわたってひろがっていくのである。
 したがって、さらにこの状況に対する反応の方も、またただちに全域をおおう情勢にあったことになる。慶応二(一八六六)年六月一三日に、西武州の飯能に隣接する名粟渓谷の一小村からおきた、いわゆる「武州世直し一揆」が、短日時のうちに関東西部圏のほぼ全域をまきこみ、「絹の道」ぞいに横浜へ向う一大隊の南下をきっかけに、一五・一六日には早くも昭島市域とその周辺が世直しの状況に入っていったのはその重要な証拠であろう。また明治一〇年代の自由民権運動や困民党の活動が、多摩郡をはじめ北相州・西武州から上州にかけての一帯で、さまざまな形の高揚をみせたのも、この延長線上において見ることができよう(開港の影響、武州世直し一揆については第五章第一節、自由民権運動については第八編参照)。西武州地域の在村文化圏は、「絹の道」圏でもあり、「世直し」圏でもあり、また「自由民権運動」圏・「困民党」圏を準備していたことになろう。(在村俳人から民権運動に入った例は少くない。色川大吉『新編明治精神史』参照)
 このように、関東西端部に鎖状につらなる地域経済圏~文化圏は、近世末期の在村文化展開の舞台をなしたと同時に、そのまま近世封建社会の最終解体期から近代資本社会への変革期における庶民の諸動向の舞台を提供していた。
 その一角をなしていた昭島市域の村々も、まもなく近世文化の段階をこえて、近代国民文化の一翼をになう段階へ到達しようとしていた。永かった封建社会は、昭島市域でも終るべきところにきていた。近代市民社会への移行もまじかいのである。