化政文化の文学の面におけるもう一つの華として、今でいう小説が盛んであった。男女の情愛を主題にした「人情本」と、勧善懲悪的な時代物の「読本(よみほん)」とが主流であった。
幕府は以前から伝統的に庶民の文学的な営なみを、風俗を乱すものだとして抑圧する態度をとりつづけていた。とくに寛政改革では、寛政二(一七九〇)年にきびしい禁止令を出していた。その翌年には、遊里を舞台に美と好色の世界を描いて人気の高かった「洒落(しゃれ)本」作家の山東京伝が、以前に政治諷刺をこめた作品で罰金刑をうけていたこともあって、五〇日の手鎖の刑をうけた。こうした幕府の弾圧の下で、小説界の中心にあらわれてきたのが「人情本」と「読本」であった。男女の情愛を主題とする人情本が、天保改革などでふたたびきびしい弾圧をうけたのに対し、読本の方は、時の封建教学に合う勧善懲悪的な道徳をたてまえとしていただけに、幕末の小説の世界でひとり繁栄をつづけていくのである。
内容は、まず封建道徳の典型どおりの理想的人間を主人公の善玉に登場させる。一方にこれがまた名前からして反道徳の、典型的な悪玉が登場し、神仏も前世の宿業も、お上から定められた道徳をも一切を恐れない大胆不敵な行為を行なう。さらに妖術・妖怪・怨霊なども登場して、善玉を徹底的に苦しめてゆく。想像を絶する艱難辛苦のなかで善玉はあくまで忠節心をすてず、人情に富み義理深く、神仏へも信心深く、道徳を正しく実践しながら、ついには神仏の加護・奇瑞や伝奇的な動物の恩返しの助力などによって、悪玉に対して奇跡的な勝利をえ悪玉はみなほろびてゆく。念願の敵討やお家再興、あるいは離ればなれにされていた善玉の全員再会など、主人公の本懐がとげられ、主君からの賞賛のうちに「めでたしめでたし」で終る。「読本」はほぼ一様にこのような筋立をもっている。
こうした勧善懲悪の表看板が、かなりのていどまで人々の素朴な正義感を満足させていたわけだが、表看板のうらでも、たくみに人々の興味をひきつける内容がたくさん盛りこまれていた。一つは、読者庶民層の耳になじみのある名所や地名、あるいはこれにまつわる伝説などをとり入れることである。二つには、善・悪双方にそれぞれ典型的な女性を登場させ、美女が悪玉の欲望のままに嬲りつくされんとするあわやのところを善玉に救われるという形で、あるいは悪玉女性や毒婦たちのあやしいまでの妖艶振りという形で、たくみに筋立てに織りこまれているエロティシズムの描写であった。三つには、さいごにほろびてゆくとはいえ、神仏もお上も何物をもおそれぬ悪玉の奇想天外なすさまじい悪業ぶりであり、正統秩序の破壊ぶりであった。とくに後の二つは、人々の感覚をつよくひきつけるものであった。読者庶民は、勧善懲悪の結末においては、正義感を満足させるとともに日常的世界への安堵感をえ、その結末を強調するために筋立てられた仮構と空想の極限における悪業やエロティシズムに、無自覚ながら日常的な道徳世界ではみたされない内面の欲求を解放させていた。読本作家は、善と悪の両極を空想の極限に描けばえがくほど、かたや勧善懲悪物語のたてまえによって禁令の対象からまぬがれるとともに、読者庶民のほんねの欲求にも、かなりの程度までこたえる結果を生んだ。かならずしも作者の意図とはいえないにしろ結果的には、幕末における封建的人間像のなしくずしの崩壊に拍車をかける役割を一つはたしていたことになる。
このころはまだ一般的には、封建的人間像をそのままこえる新たな人間を空想することも、真正面から描きだすこともできる段階ではなかった。読者庶民は、とりあえずは、かたや現実をこえる理想的な主人公に素朴な正義感を、かたや現実の極限における悪とエロティシズムに感覚的陶酔を、同時に満足させようとしていたのである。こうした読者庶民に支えられて読本は、文化一〇年代(一八一三頃)から文政年間・天保年間をすぎ、少くとも黒船来航(一八五三)までの「天下泰平」の時期、長い最盛期をつづけていた。その代表的な作家が、『南総里見八犬伝』で人気の高かった滝沢馬琴その人であった。(悪については野口武彦「江戸形而上学と〝悪〟」『文学』四五-八参照)
こうした人気のある作品のほとんどは、富と人口が集中して、幅広い庶民読者層をもつ江戸あるいは大阪で、職業的な作家の手によって著わされていたが、地方の在村文化発展の波のなかで、いわば、在村的読本作家とでもよぶべき人々が現われていた。中央・地方を問わず、それだけ小説類を求める庶民読者層が厚く、読書欲も旺盛であり、読書欲が創作欲にまで高まるほどの発展振りを示していたことになろう。