C 『露草双紙』の成立と在村文化人たちの助力

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 『露草双紙』の成立から出版準備までには、江戸などの職業的な作家とことなり、周辺の在村文化の担い手たちの、さまざまな助力にあづかるところが大きかったらしい。
 まずうたゝと『露草双紙』との関係については、第二節二にのべたように、文政三(一八二〇)年刊の『武蔵名勝図会』に「又産業の余暇、禿筆を採って月広(マヽ)野露草双紙と題号せし戯言の冊子数編を綴り」と紹介されていた。叙述されたのは文化年間(『未刊随筆百種』の解題は、根拠を示していないが「文政中脱稿した」としている)であったらしく、「前後六つの冊」が書きあがったことを記すうたゝの「自序」(本項D参照)は「文化十一戌のとし夷則日」となっている。西暦一八一四年で、『八犬伝』の第一輯が出版された年にあたる。「夷則」は陰暦七月の中国風のいいかたである。『八犬伝』第一輯は九月刊行であるから、その直前にうたたの自序が記されていることになる。
 文化一一年を叙述完了の年とすると、これを出版する準備だけで、十数年の年月がかかっている。おそらく準備完了直前まできたのであろう、文政一二(一八二九)年には「小野県居久練堂老人」なる人物の和文の序がよせられ、さらに同一三年六月には「不可説道人」が、漢文の短い賛をよせている。これら二人の人物がどういう人であったかは不明だが「小野県居久練堂老人」の方は江戸の人で、序文末尾を「筆とりしは樅園のあるじがよしなのさかしらにこそ」と結んでいる。「樅(しょう)園」とは、府中大国魂神社神官猿渡(さわたり)氏の歌学門のこと、「樅園のあるじ」とは多摩在村文化の一つの頂点に立っていた猿渡盛章(一七九〇~一八六三)のことであろうか。私が序の筆をとるのは樅園の主のどうしようもないお節介ゆえである、といっているのだから、久練堂なる人物は、うたゝとも親交のあったらしい猿渡氏(天野佐一郎氏は猿渡容盛と親交があった、としているが、年令的にいえば、父の盛章のことであろう)にすすめられて序文を寄せたものであろう。
 挿絵を描いた紅林良山は、うたゝと同じ郷地村の代々の村役人七五郎家の人で、天野佐一郎氏によれば、多摩郡関戸村(今の稲城市)の相沢伴主の門人であったという。伴主は通称源左衛門、和歌・絵をよくした人で『調布玉川画図(えず)』という地誌を弘化二(一八四五)年にあらわしており、さきの猿渡容盛の編纂した和歌集『類題新竹集』にも、昭島の在村歌人田中村矢島吉従とともにその歌が採録されている。関戸村あたりの代表的な在村文化人であろう。
 良山は、郷地村稲荷神社の拝殿合天井に、竜と天女の図をえがいており、昭和一〇(一九三五)年同拝殿修理のさいに「嘉永二酉中冬 紅林良山筆」という署名のあることが確認されている(昭島市郷土研究会山崎藤助『郷地部落の研究』昭和三十三年)。いわば在村画人とでもいうべき人物であったのだろう。