うたゝの自序によってこの物語の執筆事情にまでさかのぼってみると、さらにつぎのような形で、多くの在村文化人の協力があったらしい。まずうたゝの執筆の動機はこうであった。なかなかの名文なので、一部を紹介しよう。
春雨のいとしめやかに降こめてつれつれなる頃ほひ、近鄰なる翁三人四人してわが草戸ほとほと音づれて訪来ぬれば、地炉になら柴折くべて渋茶かいたてをませ抔(など)するに、翁奥歯より声洩していざ此口とりに昔語せばやとて、点頭合頓て鼻ひこつかせ口うこめかしつつ言つれば、又一人がいふ、おのれ若かりし時また遠からさりし耳に斯(かく)聞し事ありなど、流石(さすが)に永き春の日を黄昏(たそがる)るまで話あひぬ、予傍にありて浮木摺の短冊製しながら此話ヲ聞に、昔此辺にありしてふ(と云う)くさぐさのひな(鄙)物語りなり、其趣根なし草の根なしことの葉繁れるにや、本末おぼつかなくは侍れど、戯に摺さしの浮木紙に墨流しのすみにしませて、尾花の筆のまはらぬにそこはかとなくかい(書)付置しを………… (句読点・濁音は引用者)
この時期の序文の常として遠慮深げな修飾を多分にふくんではいるが、近隣の翁たちの武蔵野の昔話をもとにして手仕事の片手間に書きつづったものだといっている。目次の表題だけをみても、玉川・高尾山・八王子・狭山が池・岩殿観世音などの地名が筋立てにおりこまれているほか、残堀川・御嶽山・逃水なども物語の舞台にあらわれてくる。つまり西武州を舞台に人々の耳に親しい伝説・昔話をたくみに織りこんだ、まさに在村文化の生んだ『読本』だといえよう。
こうして、うたゝが断片的にかきとめておいたものを、一つの物語に筋立て、挿絵をそえて『読本』形式にととのえることをすすめたのは俳号「知戀」という友人であったという。うたゝは、こうのべている。
……そこはかとなくかい付置しを、一日友人知戀子来りて開見ていふ、此頃復讐の双紙世に行る、是を彼に類し写し、畫を交て一巻となしなば、童幼のもて遊びともなりなん事を聞ゆれ、と。予曾て承引ず…(中略)…そこらかい(書)やり置しを、知戀がいつの程にかとり出して前後六つの冊とす…………
遠慮ぶかげな修飾をのぞくと、とにかくこの読本が人の眼にふれるようになったかげには「知戀」が重要な役割をはたしていることがわかる。
知戀の実在人名は今のところ不明だが、第二節一と附編史料編でとりあげた俳諧史料だけから判断すると、うたゝと同じ郷地村の人。大神村にのこされている句合(『無題句合』中村保夫家所蔵)に、市域の在村俳人九人ほどといっしょに、今の立川市・八王子市・小平市・五日市町にぞくする村々のもの一三人もまじえて、その名をつらねている。知戀の句は、秀句として末尾に再録されている。こういう句である。
里の女の化粧おかしや梅の花 郷地二ノ知戀