成章 (博奕駄太平、山賊穴渕白闇(しらくら)実ハ横路慳九郎)
女鶯宿 (竪野千草之助久世、布田右衛門娘小露)
むら女可都里(淫婦岨根(そばね)、孝子国子)
智穹 (異人了角(つのがみ)、〓山(さやま)治右衛門)
尼星布 (真国禅師)
雨等 (武蔵野逃水)
「尼星布」は、多摩の在村俳人の頂点に立つものとして、第一・二節にしばしば登場した八王子の春秋庵系宗匠の女流俳人、榎本星布尼のことである。うたゝとは俳諧のみならずひろく文化的にも経済的にも親交がふかかった。前掲天野佐一郎氏によれば、うたゝ製造の「玉川浮木摺短冊」の広告文の末尾につづけて、「松原庵星布相伝の目薬一包八銅、相かはらず御求下され候様奉ねき(祈)候」と、星布尼の目薬の宣伝もいっしょに記されているという。うたゝと星布尼は日常的な経営をとおしても、深いかかわりをもっていたことを物語っていよう。こうしたことから星布尼は『露草双紙』の出版に助力をおしまず、口絵に一句をよせたものと思われる。
『露草双紙』口絵の一部
「成章」「智穹」は、ともに八王子の俳人仲間である。星布尼八〇歳記念句集『春山集』(文化八年)に、昭島の在村俳人連とともに名をつらねている。八王子を中心とする俳人仲間では星布の高弟として、おそらくうたゝと同じ有力な立場にあったらしい。おのおの単独の発句のほかに、星布と組んで連歌型式の「誹諧歌仙」にも、うたゝと並んで加わっている。発句だけを紹介すると左のとおりである。
たのもしの八十のちからや小松引 智穹
蓬来の麓なるべし八十の春 成章
朝顔や五里来てかたる道上手 智穹
これまでの風つつがなきはせ(芭蕉)をに哉 成章
つぎの「可都里」は、甲斐国(山梨県)の人として、同じ『春山集』に句がのせられている。
うつくしき夜をつくるや三日の月 甲□(シミ)田可都里
甲州各地と多摩郡は、たんに甲州街道ぞいという地理的な面のみならず、第三章第三節・第四章第二節四でのべられているように、甲州郡内地方を中心にした織物(幕末は生糸も)を介して、八王子市場と経済的に深い関係が結ばれていた。在郷商人層の往復もさかんで、俳諧を通じて松原庵星布尼との師弟関係も深かったものと思われる。□田村のほかに『春山集』に見える村として、暮地・駒橋・吉田・花咲・猿橋・四日市場・勝沼などをあげることができる。句をよせた在村俳人も十数人におよんでいる。□は藤ともよめる。「藤田村可都里(かつり)」ならば中巨摩郡藤田(とうだ)村の「峡中蕉風の開祖」(『峡中俳家列伝』)といわれた「蕉庵葛里(かつり)」(五味氏。文化一四年没)のことであろう。藤田村は幕末維新期には『平田篤胤門人録』慶応四年五月二〇日条に「藤田村八幡大神々主村松蔵之助源英延二十七歳」という国学者が顔を見せているので、おそらく甲斐国のなかでも、伝統的に在村文化の活発なところであったにちがいない。おそらく「かつり」とうたゝは、星布尼をなかだちにして結ばれた在村俳人仲間であったのだろう。
「むら女」は、小比企村(今八王子市)の人。上川原村「友子・俊子・規隆」が催主となっている『十評発句合都岐鳥』(文政十一年。第二節一参照)に、二句が採録されている。
時鳥(ほととぎす)啼や夜明のかかえ帯 小ヒキ むら女
向にも舟まつ人や沓代鳥(ほととぎず) むら女
小比企村は、八王子の南の相州境にちかい多摩丘陵にある。郷地村からは、多摩川の渡しと八王子宿をとおりこして三里以上の道のりになる。上川原村の句合にも参加しているのだから、おそらく、日常的にも昭島など多摩川北岸の村々と文化的・経済的に交流をもっていた地域であろう。たとえば第二節二でのべた大神村の季翠中村嘉右衛門の織元経営の原料生糸仲買商はこの地域の人で、小比企村のすぐ近くの鑓水村次郎吉であった。
「女鶯宿」「雨等」については、今のところ俳諧関係の史料からは何もわからない。しかし「女鶯宿」は『露草双紙』漢文の賛のなかに、不可説道人なる人物が「文政十三年夏六月於于鶯宿女史隠栖応レ需識」と記しており、うたゝのために不可説道人に文をよせるように要請している立場にあったらしいから、多摩の在村俳人連のだれかれを結びつけているかなり有力な在村俳人であったと見てよいであろう「雨等」については何も手掛りが見出せない。
いずれによせ『露草双紙』という在村的な「読本」の成立に、遠くは甲州、近くは府中・八王子・小比企、あるいは郷地村など、同じ経済圏~文化圏にぞくする在村文化人が、ひろくかかわっていたことはまちがいない。いかにも文化文政期らしい在村文化の発展振りを示すものであろう。