F 「読本」と読者庶民層の精神動向

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 こうした在村的読本の成立は、幕藩領主層の庶民に対する強力な文化統制下におかれながらも、現実をはなれて、極端な善悪を並べてえがく小説の仮構と空想の世界に遊びたいという欲求が、村々の上層をしめる豪農層を中心として、在村庶民層全体にきわめてつよかったことを物語っているであろう。
 読本はまた、正統な封建道徳をもとにした勧善懲悪思想につらぬかれてはいるものの、そこに描かれている善玉主人公への共感と喝采の気持は、相反する二つの面をもっていたであろう。一つは庶民の心が封建道徳にますますとらわれてゆくという面である。他の一つは封建道徳の理想像とはあまりにもほど遠くなってしまった現実の武士領主層の姿を、素朴な庶民の正義感で冷笑し諷刺し批判し去ろうとする面である。この両面の作用が庶民の心のなかで、さまざまな比重ではたらいていたものと考えられる。
 典型的な悪人としてえがかれている人物も、懲悪の対象として道徳的に否定されてはいる。しかしたとえば悪玉の一人に登場する「駄太平」のように、賭(かけ)事・押領(おしがり)・ゆすり・たかり・口論を常としている不身持者で、「其地にも住居ならず、方々と惑歩行、悪心いやましてさまざまの悪事をなしぬ」と描かれた姿は、近世中~末期の村々では、現実にどこにでも身近にいる人間像であった。自分たちもその悪に魅惑もされ、時に同調することも十分にありうる同類の姿であった。第三章第二節二(あるいは第四章第一節一)で紹介されている天保・嘉永期上川原村の運平・みな夫婦の例がある。「数多之者共え難渋相掛、果者(はては)金子可貪取心底ニ相違無御座」といって、村役人が手を焼いた行状は、まさに『露草双紙』のえがく小悪党そっくりである。むしろ悪の方が善よりもよほどリアルに描かれている。
 こうした身近の悪玉が、神仏の奇瑞や善玉の奇跡的な勝利によってほろびるという勧善懲悪の筋立ては、一方でたしかに悪のほろびることを期待する心にこたえる面をもっている。と同時に、逆に奇跡や奇瑞がないかぎり悪は常にほろびることがない、という幕末村落社会の現実におけるあまりにも身近な体験をうらうちし、これを村人共通の社会認識にまでつよめてゆく役割をはたさなかっただろうか。また、悪のほろびを、奇瑞・奇跡だけにしか期待できない気持がもっとつよめられてゆくとき、幕末から維新への変革期に、神札が降る奇瑞がおき社会の諸悪がすべてなくなると信じて、熱狂的に踊りながら既成秩序を混乱させていった「ええじゃないか」(第五章第四節参照)に、共通する面をもつようになりはしなかったか。つまり、勧善懲悪をたてまえとする「読本」も、幕末の村人の心のなかでは、封建道徳のおとろえと正統秩序のくずれという歴史の流れに、逆らう作用をするものでは決してなかったということである。在村文化の一つとして「読本」は、エロティシズムの世界に遊び、悪の魅惑にひかれ、あるいは現実社会の諸悪の根強さを思い、また一転奇跡による正義の一括実現を待望するというような、さまざまに動いてやまない幕末の村人の心を代弁する役割をはたしながら、勧善懲悪・波瀾万丈の筋立ての面白さで読みつがれていったわけである
 ここで『露草双紙』のあらすじを紹介せねばならないだろう。