A 近世寺社の創建伝承と村落

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 近世村落と寺社信仰とのかかわりを考える手がかりとして、はじめに、市域の寺社創建伝承の一つをあげてみよう。大神町の観音寺の伝承である。
  〔観音寺〕当寺は往昔東勝寺と称し……滝山合戦(一五六九)の際、当寺が北条所縁の寺であるというので、武田軍の兵火に罹って全焼したのを、時の住職権大僧都広栄法印が、徳川家康の助力を請うて慶長八年に現在地に移して再建、寺号を観音寺と改称した……。 (昭島市教育委員会『昭島の文化財』)
    (観音寺の命名についてはこういう伝承もある。「比叡山西塔某院の本尊にて仏師雲慶の作と云々」の十一面観音が、比叡山焼打後安置の場所を求めて来訪した僧によってもたらされ、「当村村長に議り一村落随喜戮力して東照寺の廃跡へ仮に小堂を営み京洛より件の尊像を迎へ安置奉り、寺号を更め観音寺と号」したという。(中村知常識『大上山薬王院観音寺略縁起』明治一四年)
 この観音寺の創建・再建伝承は、近世の社寺のどのような特徴をあらわしているのだろうか。少なくともここには、次の四つの話が重要なポイントとしてふくまれている。
  (一) 戦国争乱による古代・中世的寺院の焼失~零落譚
  (二) 伝統的な尊像の招来ないし高僧来訪譚
  (三) 一村落全体の惣村的な再建譚
  (四) 近世的封建領主による再建承認~正統化譚
 この譚話の四つの要素は、近世寺院に共通なものらしく、市域ではたとえば、拝島村本覚院の再建伝承もこれによく似ている。近世社会における信仰のなりたちかたの一つの特徴を示すものであろう。

大神町観音寺全景

   〔本覚院〕本尊は天台宗中興の名僧である慈恵大師(元三大師)自作の長二尺三寸の坐像で……比叡山延暦寺の重宝であったが、元亀三(一五七二)年織田信長が延暦寺を焼打し、一山火の海と化した際、敬湛大僧都が本尊を背負うて脱出し、諸国を行脚すること六年、即ち天正六(一五七八)年に拝島に至り、この里こそわが安住の地であると足を駐め、一堂を建立して安置したのが創始である。……    (昭島市教育委員会『昭島市の文化財』)
 以上のような特徴をもつ創建伝承を念頭におきながら、昭島市域の近世村落と寺社信仰の歴史をふりかえってみよう。

拝島町本覚院全景