B 近世村落と信仰

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 古代~中世のながいあいだ、日本の文化史は、ほとんど寺社の信仰史によっておおわれつくされている観がある。
 時代がさかのぼるほど、自然・社会の制約はきびしく、これに対応して生きてゆかねばならない個々人の力は、あらゆる面で弱かった。人々の精神活動は、自分をとりまく自然・社会を合理的に分析してとらえる力にとくに乏しかった。かれらは、自然・社会・個人のあらゆる事象とその関係を、非合理なままかれらなりに整合的に理解し、その観念の全体系を神秘化・神聖化することによって、はじめて精神の世界を安定させ、自然や社会の秩序に適応して生きてゆくことができた。このような、神聖化された観念の全体系が、神話であり、信仰の教義であった。それをつくりだし人々に布教する役割をはたしたのが司祭者であり、祭壇の場にあって国家支配の一翼をになっていた。日本のばあい奈良・京都など古代都市を中心とした大寺院・大神社がそれであった。社会の全成員は、上から与えられた寺社信仰によってこの世の全秩序を観念して生きていた。日常生活をふくむあらゆる精神活動は信仰心に収攬され、その生みだす文化もほとんどが、信仰心にふかく結びつけられていたのである。とくに荘園下の農村では、荘園領主の一翼をなす寺社の精神的な支配力が強く人々の心をおさえていた。
 中世末期、農業・農村の発展が一段階すすみ、村落のしくみもその発展段階にふさわしい惣村にかわると、自然・社会の制約は一段階よわくなった。とくに自治的な惣村の団結力によって戦国の争乱を生きぬいてきた農民の精神活動は活発であり、現世の権威に抗する面もはっきりあらわれていた。信仰心にかかわらない現世的な文化も生みだしつつあった。農業技術・土木技術も発達し、自然の脅威は、人の手によって遠ざけられつつあった。
 しかしこうして迎えた近世社会も、基本的にはまだ農耕社会であった。自然に制約される面も、農耕を基礎にする封建社会の支配も、中世までとはちがう形ではあるがやはりきびしかった。国家の支配力においても、また社会道徳・日常生活あるいは農業生産においても、信仰心のはたす役割はまだまだ大きかった。近世村落にとって氏神社と菩提寺は、村人の農業・生活全般から死後の世界まで、安全と繁栄をたもってくれる精神的支柱として、生きるために欠かせないものと考えられていたのである。
 したがってたとえ信仰をはなれた現世的な文化であっても、まだどこかで信仰心に結びついていたのが、次の近代とはことなる近世の特徴であった。たとえば俳諧が、一見したところ信仰心と関係のない風雅の道をふむものに見えても、奉額句合という形で寺社の信仰秩序に結びついているのはその一例である。
 第1図をみてみよう。市域全体のなかで寺社の分布する場所は、一つの法則にしたがっている。きわめて明瞭に村落と信仰の深いむすびつきを物語ってくれる。

第1図 昭島市の社寺分布図
(『昭島市の名所旧跡』所収略図による)

 西端拝島村の天神社・竜津寺から、東端郷地村の稲荷神社・宝積寺まで、ほぼ多摩川と平行の河岸段丘崖線に見事にそって分布している。段丘崖線は、水がえやすく中世以前から人々が住みつくのに格好の場所であった。近世村落も、ほぼ崖線にそって成長した。そして村落はかならず、氏神社と菩提寺をととのえることによって農業・生活を安定させ発展させてきた。つまり寺社の分布するところは、近世村落の分布するところであった。上川原村・築地村は近世に入り、洪水の難をさけてほかの村とことなる段丘中段面にひらかれた。他の村の分布線とはなれている寺社は、ここの日枝神社・竜田寺・真覚寺・十二神社などだけである。いずれにせよ近世村落は、寺社信仰と深いむすびつきをもって成立していたことが地理的分布からもよくわかる。
 ちなみに、近代社会は資本主義社会であり、自然・社会・人間を信仰によってでなく、科学的合理的に理解し商品として処理することによってなりたっている。資本と科学による大量生産の工業、大量商品の流通、ばらばらな個々人の分業・移動・労働とによってなりたっている。さきの地図はまことに明瞭に、鉄道(青梅線)・工業地帯・人口集中地域が、寺社分布地帯と対照的な場所に成長していることを示してくれる。しかも近世村域は、これら近代の鉄道と人口集中市街地によってたちきられたため、北と南に飛地の形をとらざるをえなくなった。こうした今の市行政区画の飛地的な特徴も、農耕・自然水・寺社信仰を中心とする近世農村社会と、商品・交通・流通・分業を中心とする近代資本制社会との交叉する歴史がもたらした産物だといえよう。
 いずれにせよ近代以前の村落社会には、村民全員が一致してふかく信仰する惣村的な社寺が、かならずおかれていたのである。