C 近世的社寺の成立

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 こうした惣村的な社寺の形をとるようになったのは、中世末期戦国争乱から近世初頭にあたる一六-七世紀である。この時期に創建または再興された寺院は、きわめて多い。
 中世までの地方社寺は、鎌倉時代前後から荘園制下の在地領主=武士によって創建され維持されてきた。在地武士の氏寺・氏神であった。やがて中世末期の戦国争乱は、荘園制社会を完全に崩壊させた。存立基盤を失うことになった在地武士の多くは、廃滅あるいは流転していったため、それらの寺社は零落の一途をたどっていった。畿内を中心とする大荘園領主としての伝統的大寺社の没落と、地方での在地武士の氏寺・氏神の没落が平行し、日本全体として、古代的寺社の権威と信仰体系はいったんは地におちたのである。観音寺伝承の第一譚がこれである。
 一方、戦国争乱の前後をとおして、みずからのうちに惣村的秩序を生みだしつつ自立小農民を基礎にして成長してきた農村は、地方の零落していた由緒ある寺社を再興する形で、または新しく定住の地をえたところに創建する形で、一村落全村民のための社寺をつくりだしていった。そのばあい村人だけで独自につくりだすのではなく、回国遊行の僧を開山僧とする形で、創建・再建される例が多かった。古代・中世的な宗教的権威にたよりながら、村人みずからの意志で、農業生産と生活の安全、死者への追悼、来世での救済を願望してつくりだしたのが、近世惣村的な寺社であった。観音寺、第二・三譚がこれである。
 近世寺社の成立は要するに、(一)古代・中世寺社の没落過程と、(二)近世的農村秩序の形成過程とのかさなりのうえに、(三)荘園領主の宗教的権威に収斂されたままの中世的隷属農民から、惣村的にみずからつくりだした寺社に精神のよりどころを託そうとする近世的自立小農民への転化・成長、この三つがからみあってうみだした歴史現象であったわけである。
 大神村観音寺の再建伝承は、こうした日本全体の近世村落の信仰の動向にぴったりあうものであった(以上日本全体の動向については、竹田聴州「近世社会と仏教」岩波講座『日本歴史』近世1所収、二六五~七頁参照)。
 幕府諸藩は、こうした下からの宗教上の自立傾向を、あるていどまでみとめる政策をとり、領国支配貫徹のためにも、一定の優遇策をとった。村々の寺社敷地を「除地」として年貢課税対象からはずした。由緒のある寺社には、わずかではあるが寺社領地を与えた。村人の方も幕藩領主に村の寺社の承認をうけることによって、自分たちと村の存在を新たな社会秩序のなかにはめこんで正統化させることもできた。観音寺伝承第四譚がこれである。
 それと同時に幕藩領主は、農民個々の精神世界をもっと強く確実に、封建支配のなかにとらえこむ政策をすすめた。まず、本寺末寺の制度をしいて、寺院そのものを統制した。とりわけキリシタン禁令の徹底化によって、すべての人間をかならずどこかの仏教寺院の檀家に登録させる寺請制度をしいた。村民の檀家登録を記す「宗門人別帳」は、名主など村役人のととのえるべき最重要書類の一つとなった。村役人をとおした幕藩領主の農民支配は、たんなる武力によるだけではなく、精神の内面にまでいっそう強められることになった。(市域各村の「宗門人別帳」については第二章第二節を参照)
 こうしてみると、近世村落における寺社の創建・再建の動向は、(一)古代・中世的な宗教的権威の継承、(二)近世的自立小農民の惣村的な信仰の出発、(三)近世的幕藩領主の精神的統制支配の強化、という三つの要素のからみあいのなかですすんだものだということになる。
 ここで市域のおもな寺社の創建・再建の伝承およびその年代をみると、さきの観音寺・本覚院だけにとどまらず、そのほとんどが一六世紀後半から一七世紀初頭であり、前にのべたような近世日本全体の村落信仰の動向とまったく一致していることがわかる(第1表参照)。

第1表 市域寺社近世創建・再建伝承年代一覧

 こうした伝承をつたえてきた村民の心のなかでは、みずからがつくりだしてきた村落世界と、そのなかにみずから充足している精神的小宇宙の成立が、この中世末-近世初頭の時期に始ったと観念されていたことになろう。近世社会は、成立当初から多くの矛盾をはらんではいたがそれがはっきり表面化してくるまでのしばらくの間、村民は、この村落の小宇宙のなかで、寺社信仰をとおして、無病息災・村中安全・国土安泰の願望のみたされる感をいだきながら、村落の整備・拡大と日常の生業にいそしむのであった。
 やがて一八世紀にはいると、第五編第三章でのべられるような、さまざまの社会的経済的な変動が、村々のありかたを変えはじめる。村民の心は、しだいに村落信仰の精神的小宇宙のなかだけに満足できなくなってゆく。村落の寺社信仰は、大きくかわらざるをえなくなるのである。