D 村落社会の変化と信仰の変容

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 近世村落の寺社信仰は、農業生産・日常生活の安全・豊饒、死者への追悼、来世での救済など、村内さまざまの願望をみたすべきものであった。したがって、幕藩制社会と村落秩序が、何らかの理由で変化し動揺し緊張をかさねるごとに、それに応じて拡大する村民の新たな願望や救済祈願を満足させるため、村落小宇宙の外から、新しい信仰要素をとりいれる必要にせまられていった(宮田登「代参講の一考察」、日本宗教史研究会『共同体と宗教』所収参照)。
 村民の新しい救済願望、信仰要求のきっかけ、内容はさまざまであるが、無自覚ながらも秩序にたいする意識の変化、ひろい意味での思想的営為の一つとみるべきだろう。
 たとえば大山信仰・富士信仰・伊勢信仰など、村落外の強力な神々を求めるとき、村民の代表が交替で詣でる「代参講」がおこなわれた。また、伊勢・戸隠・榛名など遠地から御師とよばれる下層神官が巡回してお札を配ってあるく習慣(配札)もあった。たとえば、時代の下る史料だが、天保一三年正月、上川原村では、つぎのような村落外の寺社のために支出がおこなわれていたことが、名主七郎左衛門の「諸事控之帳」にかきとどめられている。
  筑波山         一の宮(武蔵一の宮か) 信州戸隠山
  拝島(大日堂か)    愛宕山         鹿嶋
  榛名山         大山          不二山
  御嶽山         大神宮                   (指田十次家所蔵文書)
 一方、こうした村民の村外信仰への願望を逆用する形で、寺社側が財政難をおぎなうため、村々に寄附金などを求めてくるようにもなった。すでに幕府みずからが財政難におちいり、大寺社への財政援助がむずかしくなっていたこともあって、幕府は寺社の資金募集の手段である開帳や勧化を体制的に公認し、保護・助力する政策をとるようになっていた(湯浅隆「近世的開帳の成立と幕府のその政策的意図について」『史観』第九〇冊所収参照)。
 こういう幕府・寺社側の一方的な要求に、はじめは村外の強力な寺社の力を求めていた村民も、村方じたいの財政窮乏もあいまって、講・配札あるいは勧化などにかんたんには応じなくなった。全国規模で既成の信仰的権威の崩壊がすすんでいたのである。
 たとえば文政一一(一八二八)年にこういうことがあった。その年三月ごろ、中神村中野久次郎は、粟ノ須(八王子市)の忠兵衛という人物といっしょに、「高尾山大々咄(だいだいばや)し」(または大々神楽(だいだいかぐら)。明治初年神仏分離令以後は廃絶。高尾山薬王院談。)という催事のための講の世話人格になったらしい。おそらく高尾山や忠兵衛からたのまれたものであろう。そこで四月二日に与八という家の者を芝崎村方面へおくり講にくわわるよう勧誘させた。四月四日には、みずからも「八王子市へ行、高尾山太々講所々咄し申ス、七ツ半時市より帰リ申ス」とすすめあるいた。ところが、六日には「高尾山大々神楽事、与八を以所々相進候所、五六間(軒)ならでハ相調不申候」という状況だったので、「粟須忠兵衛殿方へ与八を以断申候(もつてことわり)」ということになった。そこで翌日雨のなかを忠兵衛は高尾山へことわりの掛合いにいった。同じときに高尾山の方からも久次郎に督促の掛合いに使者がさしむけられたが、久次郎がことわりつづけたところ、「江戸買物等も有之候得者(これありそうらえば)、十五日ニも間無ニては、無拠(よんどころなく)帰り□□先及延行申ス」とやむをえず延期することにして帰っていったという(中野久次郎「諸用日記控」)。
 また同七月十七日に勧化にやってきた伊勢神宮の御師についても、つぎのようなありさまであった。
  七月十七日 伊勢御師手代中村罷越候て、廿一ヶ年目前宮ニ付勧化進、達而断候得(たつてことわりそうらえ)とも、両年なりとも追被下候様ニ申候て、進物持参帳面ニも無□預置申ス、右ニ付其節勧化相調不申候ハゞ、持参之品御返し可申候間、受取可申候由申候所、承知而罷帰(しようちしてまかりかえ)り申ス
                    手前方へ
                     風呂敷壱つ、麻壱連
  何れ当年中之内            村役人中へ万金丹壱袋
  相返、暮ニ御通リ節          村中へはし壱袋づつ
  御咄し可申と申候           預り置申
                                            (同前「諸用日記控」)
 伊勢側は二一年目の、おそらく遷宮にあたっていたのであろう、寄進者に配る風呂敷・麻・薬・箸など持参で村々の勧化に歩きまわっていたのである。久次郎側のたっての断りにもかかわらず、無理やりに持参の品々をあずけ、勧化不成立のときにはあとで返してもらえばいいという約束でかえっていった。同年一〇月二三日条では、ふたたび来村して勧化をすすめにきたが、すべて久次郎側でことわり、持参品も返却している。
 こうして昭島の村々では、伝統的・権威的な信仰体系は、これを保護する幕府の政治的権威の後退とあいまって、しだいに村民の心のなかで崩壊の一途をたどりつつあったのである。