E 村外神仏の招来・分祠と上川原村痢病神

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 しかしそのことは、村民が信仰心そのものを捨ててゆくことを意味してはいなかった。むしろ逆に、より新しい強力な信仰対象を切実に求め、みずからつくりだしてゆく方向に向っていたのである。
 新しい信仰をつくりだしてゆく気持がとくにつよまるのは、疫病や凶作・飢饉などによって、村落の農業生産・日常生活・生命保存が、現実に目の前でおびやかされるときである。また、領主支配の重圧のかさなりによる村の危機的な諸状況の解決をもとめて百姓一揆がおこされ、その指導者とみなされたものが処刑される、というような、人々の精神の緊張が極度に高まったときなどもそうであった。前者のばあい、村外で評判の疫病退治の神仏を招来・分祠してみたり、後者のばあいは処刑された指導者を「義民」としてまつることがおこなわれた。市域の村々では、疫病の流行のときに、村外から「痢病尊神」なるものを招来した例がある。上川原村の竜田寺の一隅にあって、今も信仰がつづいている。招来の伝承を要約すると、つぎのようである。
  痢病尊の由来は、天正年間相州坪ノ内村(現伊勢原市)養国院の檀徒宇佐見某の老母が、痢病に罹り百方手を尽したが癒らないので、孝心な忰某が……養国院に日参して一心不乱に祈願を籠めていると、……「吾は痢病尊神である。汝の孝心に感じて老母の病気を治す霊薬を教えるから平癒の上は養国院の西南の隅に祠を建てて吾を祀れよ」と……早速神示のままに実行すると不思議にも重態であった老母が忽ち平癒したので堂宇を建立して奉安したのだという。その尊像を、養国院十三世の慈海竜吟和尚が文化年間の初め背負うて来て、そのまま竜田寺に駐まることになったので、祠を建てて奉安したのが縁起である……。(昭島市教育委員会『昭島市の文化財』)
 相州養国院の痢病尊神の伝承そのものも、伝染病の流行する危機のなかで、坪ノ内村の寺社ではみたされない祈願・願望を、新しい宗教権威を招来することによってみたそうとしたことをしめしている。またその信仰・伝承にたよって上川原村民が、たまたまこの地に行脚してきた養国院一三世竜吟和尚が竜田寺で亡くなったのを機会に、その笈摺(おいずる)(行脚巡礼者の背にはおる旅衣)に背負っていた小像をまつって、「痢病神」として信仰したのも同様である(竜田寺の伝承による)。今でもこれを「痢病神さん」とよんで御札をうける村人が少なくない。「嘉永五壬子六月」の年号(この年に祠をつくりなおしている。)のはいった版木がのこされているという。(現在、竜田寺で一般に配札しているものは、前頁写真のとおりである。「痢病尊」の字は、明治初期の神仏分離令のときに削りとられた「痢病神」の文字にかわって、ゴム印で捺されている。「上川原村龍田寺」の文字もゴム印で、もとは「上川原村」となっていた、という。村人の方では、もとのまま「りびょうじんさん」と呼んでいる。)(以上『昭島市の文化財』・竜田寺住職櫛田僊英師談・養国院住職師談・教育委員会稲葉薫氏調査による)

竜田寺痢病神御

 こうした村落・村民の一つの危機状態のなかで、村外の新しい宗教的権威が招来されるばあい、それまでの村内の宗教的伝統に対立する形でもちこまれるのではなかった。その村の氏神なり菩提寺なり旧来の村落小世界を統一していたものの承認をうける形で、竜田寺の痢病神のようにその域内に安置の場所があたえられた。旧宗教権威が、村民の新しい信仰願望に無限の寛容さを示すことで伝統的な権威をたかめ、霊験の幅をひろげることによって新旧ともどもその権威をさらにたかめる、という考えがあったと言われている(前掲宮田登氏)。
 また氏神・菩提寺の氏子・檀家の惣代格をかねる名主村役人らは、新しい祠の建設などの世話役もはたしたから、村落共同体のなかでも村民の信仰願望が承認され正統化されたことになる。さらに名主が、これを代官所などに届け出て、その承認をうることによって社会秩序全体のなかにも正統な場をあたえられた。