富士講は、もともと富士山を霊山とする山岳信仰であり、富士の「仙元大日神」を天地万物の創造神とみなし、これを信ずることによって、天下泰平・一家繁栄・病苦退散などがえられるという、呪術的な傾向のつよい信仰であった。近世中期になると、都市の発展と農村の商品生産・流通の発達を背景にして、農業・商業などの職業をおのおのが怠りなく勤勉につとめることにより幸福が与えられる、という職業実践倫理が強調されるようになった。さらに後期に入るころには、天地の恵みのもとでは士農工商の四民のあいだにまさりおとりの差別はないという、一種の平等観を表明するものもあらわれるようになっていた。こうした富士講は、江戸とその周辺農村でもさかんに信仰された。町や村の農商民で行者をかねる者も多くあらわれた。講をつくり、富士塚を築造し、行者が先達して富士登山を行うなど、信仰活動を活発にすすめるものがあとをたたなかった。
こうした富士講の教義と普及ぶりにたいして、幕府は、寛保年間(一七四一~四三)頃から禁止令をしばしば出すようになっていた。幕藩制社会の動揺がふかまるほどに、信者の組織はふえ、また禁止令の方も厳しさをましていった。とくに嘉永年間(一八四八~五四)には、不二道ととなえる一派が信仰の公認を幕府に訴えつづけたことをきっかけに厳しい禁止令がだされ、富士講・不二道の教義書・祠などの破棄がおこなわれた。表面的には富士信仰は姿を消すことになったが、実際には信者はあとをたたなかったらしい。(以上富士講については村上重良『近代民衆宗教史の研究』四三頁~六四頁参照)
昭島の村々でも同様であった。小さいながら富士塚もつくられ(次頁写真参照)、富士講の行者格の人物もいた。たとえば、福島村の農民、柳川直右衛門がそれである。富士講では、仙元大日神の信仰をふかめる行為として、富士登山をおこなうが、登山の回数が多いほど行者としての精進がふかい、と考えられていたから、講の信者をひきいて登山の回数をかさね、「大願成就」をめざす行者が多かった。百度の登山におよぶものもあったという。柳川直右衛門のばあい、何年かかったか不明だが、明治九(一八七六)年に五七回目の登山を達成し、直右衛門に先達をうけた講中のおもだった人々--おもに各村の名主格だった人々--の手で、「登山五十七度 大願成就」の記念碑がたてられた(次頁写真参照)。今は福島町広福寺の境内に安置されているが、もとは、青梅道の郷地村境に近いところに建てられていたものである。
上川原村の富士塚
富士講柳川直右衛門記念碑
(福島町広福寺境内)
この記念碑の台座に、建立事業にくわわった人々の村名と姓名が刻まれている。これをみると、一人の行者格の農民が、どのくらいの範囲の人々の信仰を組織していたか、がおぼろげながら知ることかできる。村名だけをみると、つぎのとおりである。
武州多摩郡
中神村 郷地村 福島村(以上、昭島市)
石川村 滝山村 大谷村(以上、八王子市)
木曾村(町田市)
黒沢村 成木村 諸岡村 小曾木村(以上、青梅市)
久米川村(東村山市) 三ツ木村(武蔵村山市)
入間郡
所沢村(埼玉県所沢市)
相州高座郡
淵ノ辺村(神奈川県相模原市)
愛甲郡
角田(すみだ)村(愛川町)
甲州都留郡
□□(瑞穂カ)村(山梨県都留郡、該当村名不明)
このように、幕末~明治初期に福島村の一人の行者の組織する信仰集団が、武州・相州・甲州におよぶかなり広い範囲にひろがっていたことがわかる。在村の一行者でさえこれほどの広範囲に支持者をもっていたのが富士講であった。
こうした農商庶民への広汎な普及ぶりとその教義の独自性を、幕府はおそれて禁止をしたのである。村人の精神が村落の外の新しい信仰組織につながってゆくことだけでも、幕府からみて正統な信仰秩序をくずすことであった。ましてそれまでの儒仏神とことなる、新たな創造神の宗教的権威が村人の心のなかにうちたてられることや、新たな宗教的権威による職業実践倫理をもつことになればいっそうであった。
こうした富士講の発展と禁令のくりかえしのおりなす状態は、信仰という人々の内面において、封建的正統世界が確実にくずれ、これを超える精神世界が手さぐりされていたことを示しているだろう。昭島でもおそらく、福島村柳川直右衛門のほかにも行者格のものもいたかもしれないし、また他地域の行者の先達をうけて信仰していたものもいたことであろう。正統世界の崩壊はここでも明らかであった。