A 流行神とは

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 どこの村でもそうであるが、一つの小祠といえどもその成立に到るまでには、人々の膨大な精神的エネルギーがそそぎこまれていた。村ぐるみで費用や労力をかけて祠を建立し、永代維持できるだけの信者が集まり、村民全体が一つの信仰心にまとまらねばならない。最終的には旧寺社の伝統的日常的な信仰世界にくみこまれるものとはいえ、村人のよほど緊張した非日常的な精神状況のなかで、やむにやまれぬ信仰心情が強くはたらいたことであろう。
 名もない小祠への参詣が、なにかの奇瑞や予言・宗教的陶酔をきっかけに、爆発的に流行する事例が近世をつうじてしばしばみられる。これを「流行神(はやりがみ)」とよぶが、流行神の出現するところかならず一方に、疫病・凶作・飢饉などの社会不安と緊張がひろがっていた、とされている(宮田登『近世の流行神』)。
 流行神を生みだしてゆくとき、そこには現実に、事実として、どのような社会的な緊張のもとで事態が発生し、人々の気持がどのように爆発的に動き、どのような経過や資金調達によって小祠ができあがるのか、どのようにそれが、人々の信仰心に定着して永続化してゆくのか。ほとんどのばあいその具体相は、たんなる伝承や聞き書の形でしかのこされていない。史料も年代記・随筆集・名所案内記ていどのものしかない。
 しかし昭島市域のばあい、ひじょうに珍しいことに、流行神とその小祠建立の全貌をほとんどにわたって知ることのできる史料がのこされていた。上川原村で天保六年正月、爆発的な参詣者をまねいた「惣十稲荷」(「天珠惣十稲荷」)である(写真参照)。名主七郎右衛門が、事の発端から代官所への届出まで奔走した体験を記した「永代萬覚帳」、賽銭の額を数年にわたって記録した「賽銭帳」小祠建立費用などを記した「入用帳」、小祠維持のために水田を購入して小作にだす経過の記録、殺到する参詣人目当てに商人までが店をはりだした様子を代官所に届出てお伺いをたてている書類などである。(指田十次家所蔵文書)、(史料編一八一・一八二参照)

今の惣十稲荷(明治初期につくりなおされた石祠とその覆屋,左の祠は仙元社)