天保六(一八三五)年といえば、いわゆる三大飢饉の三つ目、天保大飢饉の前年であった。すでに重い年貢で疲弊していたところへ、気候不順が天保元年・二年とつづいていた。そこへ、四年には低温・多雨、奥州大洪水、関東大風雨にみまわれ、凶作が五年・六年と慢性的につづいた。翌七年とくに東北地方では、作柄はよくても四~五割減、ひどいところで八~九割減となったため、大惨状を呈する飢饉におちいった。
昭島市域でも、天保四年以来の凶作が大きな影響をあたえていた。その二、三年後に惣十稲荷の顛末をかきとめることになる七郎右衛門と同じ年番名主仲間の金右衛門の覚書によるとこうであった。まず天保四年の「万作物大凶」の影響が深刻だった。それ以来、米麦の高値がつづいた上に、米穀の買占め、投機買いがくわわって「世間一統……直段格別高値に」なった。社会不安は深刻で、「貧民取締かね、人気不穏趣」きであったという。天保六年とは、こうした慢性的凶作・米穀高値・人心不穏のうちつづく三年目にあたっていたのである(天保飢饉前後の状況については第三章第二節四参照)。
こうした天保六年があけたばかりの正月四日、「惣十稲荷」流行の発端はつぎのとおりだったと七郎右衛門は記している。現代語訳で紹介してみよう(以下、史料編一八一・一八二参照)