ところがちょうどそのとき、私共の自宅に福生村十兵衛・金右衛門が年始のあいさつに来ていた。そのほかにも、二、三人の年始客がおり、御馳走をだしている最中であった。そこでその申し出をことわり、儀右衛門はもどっていった。儀右衛門が権八宅にもどったところ、なおも七郎右衛門様にぜひお目にかかりたいとくりかえし申している。そこで「七郎右衛門様のお宅に来客があるのでおいでになれない、頼みは口頭で申しつたえるから」と申した。しかしまた、「口頭で伝えたのではわからないことだから、ぜひぜひ七郎右衛門に直接に会いたい」とせきたて騒ぐばかりであった。
そこで儀右衛門が、また私共のところへやってきて、右の様子を申立てたので、忰(せがれ)の桂蔵をかわりに行かせた。ところが「桂蔵様では用事がたしがたい、七郎右衛門様を直接においでくださるように」と求めるので、桂蔵はそのまま立戻ってまいり、右の様子を話した。ついにやむをえず私共が権八の宅へまいり、面談することになった。「しま」が申すことは、こういうことだった。
私は、肥後国(熊本県)熊本の生れであるが、わけがあって国元を立ち出で、二百年ほどのあいだこの山に住みついている。しかしいまだにだれにも知られずお宮もないままである。そこで貴殿を頼りにして、お宮をこしらえてもらいたい。場所は、これまで住みついてきた仙元山(浅間山)にしてほしい。お宮をこしらえてくれれば、「しま」の病気は全快させてあげよう。そのうえ、村中安全をいつも保ってあげることにしよう。
そこで私七郎右衛門が、お宮をつくったときの名前をどうするかとたずねたらば、肥後国では惣十稲荷と申していた、という。そこでこのお宮を「惣十稲荷大明神」と申すようにしてきたのである。
こうした顛末を、江川太郎左衛門様の代官御役所へも、七郎右衛門みずからお届けにまかりでた次第である。また右の稲荷にあつまった御賽銭で、(同年四月に)大神村の庄蔵の水田を、八升蒔きの広さ金七両の値で買いうけ、この小作料八斗がお宮に入るようになった(文政八年正月『万覚帳』所収、「惣十稲荷」より)。
惣十稲荷覚書(文政8年『万覚帳』より)
以上が、名主七郎右衛門の覚書のあらましである。そのほか覚書の後年のところに「惣十稲荷免として」という項目で、小作田の代金に嘉永二年に二両、同六年に五両二分を、それぞれ増して合計十四両二分となり、面積も一斗一升蒔きにふえて小作料一石一斗が入るようになった、と記されている。
もう一つ、これらの顛末を記した代官所への届書がある。「乍レ恐以二書付一奉二申上一候(おそれながらかきつけをもつてもうしあげたてまつりそうろう)」と題して、つぎのように記している。
武州多摩郡上川原村役人惣代名主七郎右衛門が申し上げます。当村の百姓権八の女房しまというものが、去年の八月中から大病をわずらい、ほとんど絶食のままふせって、だんだん病が重くなっておりました。ところが今年正月四日、稲荷がのりうつりました。当村内の字(あざ)藤塚に富士仙現社(浅間社)があり、その社内に古くは稲荷祠がありましたが、大破して今は跡かたもなくなっております。この祠を以前のとおり建なおしてくれ、建なおせば、病気は全快するであろう、と申します。そこで、その意のとおりにちょっとした祠をたてましたところ、すぐさま病気がなおりました。
このことが近くの村々まで伝わりますと、病身のものどもがやってきて信心するようになり、いずれも快方に向いました。そのため、信心するものも、ただ参詣だけにくるものも大勢となり、餅菓子などをうる商人があらわれて商売するほどになりました。
このままでは、どれほどまで繁昌するやら見当もつかず、そのまま放置しておくのもいかがかと存じ、村役人一同で相談のうえ、こうした事情を、代官所へ報告申し上げるしだいです。 七郎右衛門
天保六未年正月廿八日
以上の史料にでてくる権八は、宗門人別帳などにも記されている名で、しまの墓ものこっている。ともに実在の人物である。名主の覚書と代官所への届書どちらも、病人だった実在の女性の宗教的な陶酔~啓示のようすを、ほぼ正確につたえているものとみてよいであろう。
この顛末を客観的にみるとすればこうであろう。