「惣十」というのは、何かの人名とも考えられるが、あるいは「村中」を意味する「惣中(そうじゅう)」のつもりで吐いた言葉かもしれない。また肥後国熊本とは、上川原村の草分けの一族木野氏の祖先伝承がかかわりをもっているらしい。肥後熊本の菊池氏の流れをくむ武士で、近世初期ごろ(天保から、約二百年前)上川原村に定住した、という伝承である。そのほかの草分けの家々にも、横山氏・北条氏・石川氏・松平(徳川)氏など中世武将の遺臣であったという武家筋伝承がある(山崎藤助『上川原部落の研究』)。そうした伝承の真偽は別として、村民のあいだに祖先がどこから来たのかという話として折々に語られていたことであろう。日常の会話にのぼる二〇〇年以上前の祖先たちの地、武蔵・相模・三河・肥後などのなかから、もっともかけはなれて遠い肥後熊本が、先祖の地と二重うつしになってしまの口にのぼってきたとしても不思議ではない。二〇〇年間住みついていた、という言葉も、こうした武家筋伝承の年代と無関係ではあるまい。しまのこの日の言動はほとんどそのまま客観的な事実として十分に理解できよう。
こうしてみると、惣十稲荷再建の顛末と流行神ぶりを伝える二つの記録は、きわめて信憑性の高いものである。と判断してよいであろう。
稲荷社再建のうごきは、しまの言葉が七郎右衛門に諒解されたその日のうちに村ぐるみではじまったらしい。正月四日の日付で「天珠惣十稲荷宮賽銭并奉納諸入用帳」と題する村の帳面がつくられた。おそらく仮宮をたてたのだろう、翌五日から賽銭があつまりだしている。そのはじめの部分をみてみよう。
「天珠惣十稲荷宮賽銭并奉納諸入用帳」
一、百六拾六文 正月五日より九日まで
一、弐百七拾弐文 〃 十日
一、三百四拾五文 〃 十一日
一、弐百廿四文 〃 十二日
六十六文 仙元
〆弐百九拾文
一、弐百五拾七文 十三日
八十七文 仙元
〆三百五拾八文(マヽ)
はじめの五日間は一日平均三〇文ほどの少額であるが、まもなく一日当り二〇〇~三〇〇文にふえたうえに、一一日からは並びの浅間社まで賽銭があがるようになっている。さらに近くに神明社の小祠もあったのだろうか、稲荷・仙元・神明の三つの賽銭が、刻明に記録されつづけてゆくのである。賽銭の額の変化は、「流行神」のはやりかたをあらわす貴重な史料となるので、日計表を史料編(一八四)に収録した。参照されたい。全記録をつうじての最高額は、翌二月の五日初午の日である。
一、五貫(百)四拾弐文 五日
内百文 廻り遺ス
九百八拾文 仙元
六十四文 神明
〆六貫百九拾文(マヽ)
(時に合計数字があわない日がある。なぜかそのばあい、四文多くなっていることが多い。)
この日もおそらく餅菓子などをうる店もならんだであろう。賽銭が周囲にまでちらばるほどあつまり、村役人たちは粗相があってはならないと賽銭拾いや勘定にも神経をつかったことであろう。このころは村役人の諸勘定の小さなあやまりなどでも、これを突いて村方騒動がよくおきる時代であったから、なおさらそうであった。この日も、名主がはじめ「五貫四拾弐文 五日」と書いてしまってから、脇役かだれかが、廻りにおちていた百文分のぬけていたことに気がつき、「百」を横にかきくわえたあと、「内百文 廻り遣ス」と訂正の趣旨を明記したものであろうか。流行神の爆発的な繁昌にとまどいながら、はじめての初午の日も無事におわり、夜おそく行灯のまわりで鳩首をあつめて事後処理にあたっていたらしい村役人たちの姿が、目にうかぶようである。
以後、天保六年の未(ひつじ)年から申・酉・戌・亥・子・丑・寅とつづき卯年の天保一四年二月三日初午の日までの賽銭帳が発見されている。流行神の爆発的な流行の時期の長さをみるために、賽銭の集計を第2・3表にしてみた。(日毎の記載については史料編第十二章(四)参照)
第2表 天保6~7年,賽銭毎月記録
第3表 天保8年以降賽銭年額記録
第2表によると、参詣者が殺到していわゆる「流行神」の現象を示したのは、正月から四月までの約四ケ月といってよいであろう。四月には最初の賽銭帳がとじられ、小祠建立費用の支出や個人の奉納金なども集計され、小作田の購入がおこなわれた。おそらく、稲荷宮の建設事業が一段階したときとみてよいであろう。
五月以降は、賽銭の額が急減している。とくに六月以降からさらに九月以降になると、農繁期ということもあってか、減少ははげしい。七年にはいると、二月初午のころを中心に商人たちの奉納もふくめ賽銭額は上るが、五月以降は沈静し、折から凶作をよんでいた冷夏の中での収穫の季節にやや上昇を示すていどである。八年は二月初午のころも、もはや前年・前々年のような流行状況はみられない。
近世流行神は、短期間の爆発的な流行のあと急速に沈静してゆくものだといわれている(宮田登前掲書)。江戸の有名な「太郎稲荷」(浅草、享和三(一八〇三)年)のばあい「半年も過ければ、参詣人もまれにて元の田舎のごとし、俄に盛(さか)るものひさしからずという理なり」(『塵塚談』)という状態だったという。上川原村のばあい、賽銭帳によると、熱狂的流行期四ケ月、沈静化に向う時期五ケ月、以降一〇ケ月目からは沈静期とみてよいであろう。
その後はどうなってゆくのであろうか。江戸太郎稲荷のばあいは、三〇数年後天保年間にふたたび流行したという。上川原のばあいは農村であるから、村鎮守日吉神社の氏子が、氏子総代の七郎右衛門家または金右衛門家を中心にそのまま稲荷の信仰集団=講をつくり、永く信仰と祭祀を保ち、稲荷免田を維持してゆく慣習がつくられたようである。つまり村落の信仰秩序~精神世界のなかに、正統な場所をえて、いわば慣習期に入っていったわけである。
古老の伝えるところによると、昭和一〇年代末までは、二月初午の日に、お稲荷さまの田んぼでとれた米を白米について、重箱のふたがもちあがるほどの巨大な握り飯につくり、村中にくばったものだという。同じ日に男衆が酒食をかこんでお日待をする習慣は、昭和五二年現在もつづいている。お稲荷さまの田んぼは大神村の方だったという。天保期に購入した稲荷免田がこれにあたるであろうか。稲荷へ赤い幡を奉納する習慣も、現在つづいている。流行期・沈静期につづく慣習期が、現在にまで到っているわけである。今の祠は明治期につくりなおされた石祠である。
日待の最初は、再建翌年からおこなわれたらしい。天保七年「入用覚」に「正月十二日、三百七文 日待入用」「二月五日 七百六拾四文 日待入用」とある。それ以来毎年つづけてきたものであろうか。