F 惣十稲荷流行の基盤

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 参詣者が、どのくらいの範囲の村からきたのか一切不明である。ただ奉納帳には賽銭よりもまとまって高額(といっても銭一〇〇文から金壱朱ていどまでであるが)を奉納したものの名を記し村名を附してある。これをみると、上川原村以外では、大神村・拝島村・熊川村・田中村・砂川村・宮沢村・中神村である。現市域とこれに隣接する福生・立川市域にあたる。市域全体の軒数は天保期で五〇三軒、熊川一三四軒・砂川二七一軒、正月四日七郎右衛門のところへきていた年始客の居住村である福生は二二二軒、賽銭帳の裏表紙に和歌をしるしている一歩の出身地立川(柴崎)二四八軒、概数であわせると一四〇〇軒近くとなる(市域以外は『新編武蔵風土記稿』による)。この辺を中核にしてその周囲の村々あたりまで、おそらく周辺一~二里圏のおよそ二~三〇〇〇軒ていどの家々から流行期にかわるがわる参詣にやってきた、とみてよいであろうか。
 ところで権八とは、どういう百姓であったのか。ここで天保六(一八三五)年しまの大病のころの、上川原村宗門人別帳によって、土地所持高をみてみよう。全村本田畑新田畑あわせて八八石余のうち、権八の村内持高一石五斗九升、病後には一石に減少して転落傾向にある。上川原村全体の階層表(第三章第三節二の第五表)によれば、村の中では小さいながらも中層にぞくする。権八よりもさらに弱小な農民も多い。
 多摩地方のとくに武蔵野台地をふくむ村特有の小さな持高だが、上川原村はそのなかでもとくに小さい村である。近世社会全体からみれば、権八は年貢負担能力のきわめて小さい下層農民だったといってよいであろう。しかし、石高だけではこの地域の農民の実態をきめることはできない。農間稼ぎでは女子の織物と男子藁細工・駄賃稼ぎ(馬をつかう運搬業ないし小商い)が、少額ではあるが確実な現金収入となって、農業経営と家計を支えていた。それだけに、女房の長期療養は、織物収入の減少として大きく権八家の家計をおびやかしていたであろう。
 おそらく健康なときは、百姓の女房一般がそうであったように、家事・育児・農作業にそして織物の手わざに、きわめて勤勉で陽気な人のよい女性であったにちがいない。それだけに病による収入の減少と打続く凶作は、さきの持高状況にしめされるようなこの地域の小農民家族共通の社会不安の強まりを、しまの心のなかでいっそう大きく増幅させたことだろう。しまの宗教的興奮状態での稲荷再建要求は、社会不安の一括した解決を急ぎもとめている昭島市域~多摩地方の農民諸層の切実な心情を、無自覚ながらも信仰の形をかりて代弁したものだといえようか。その心情こそ、四ヶ月ほどの爆発的な流行期を支えた多摩地方民衆の精神的なエネルギーであったのであろう。
 この間、しま一人の病は回復して当面の不安はとりのぞかれたであろう。稲荷流行期もおわって上川原村もやや落着きをとりもどしたかもしれない。しかし殺到した多くの参詣者にとっては、それだけですまなかった。短い流行期のあと沈静期から慣習期に入ってゆく頃、世は天保初年からの不作につづいて、大凶作の年天保七年にさしかかっていた。物価高騰のなかで、もっと新しい解決の道を求める気持が高まっていったであろう。流行神による解決の糸口が見えたかに思えた幻想のあとだけに、高まりはいっそうであっただろう。そこでは、もはや信仰という心のもちかただけで社会不安の解決をはかるのではない、社会そのものをかえようとする方向に向いたとしても不思議ではない。時代はいよいよ、幕藩制封建社会の解体期最終段階に近づき、「世直し」の言葉がきかれるような時期となっていくのである。
 昭島市域に「世直し」の言葉があらわれる慶応年間まで、あと二〇年余をのこすだけとなっていた。