一つの社会の不安~動揺期-とくに構造的な-にあっては、一個の不安・苦悩の解決の幻想は、いままで解決の見透し皆無のままあきらめのかなたに忘れていた社会的不安・苦悩をふたたびつよく自覚させ、より高度でより広範囲な解決を求める方向に、人々の心を向かせるからである。それがつみかさなれば、この世界の全面的な救済を願望する方向にすすむであろう。そこには、現世の全秩序を超越する宗教的な権威をもつ、メシア=救世主の到来願望に行きつくほかに道はない。世界を一括救済することを予言する、いわゆる創唱宗教の出現である。
上川原村の史料のかぎりでは、そのような徴候を直接示すものはなかった。しかし、少くとも惣十稲荷信仰を村中で維持してゆくなかで、どのような救済願望が自覚されはじめていたか、そこには、全救済の方向につながる要素はなかったであろうか。ここで、賽銭帳・入用帳などにかきこまれた言葉をとおして考えてみたい。
惣十稲荷関係の諸帳面のなかで、流行期のはじめの二冊については、記帳をおこなっていた村役人たちの精神の高揚ぶりをそのまま示すかのように、帳面のうらに、つぎのような言葉がかかれている。くせの強いくずし字で走り書きされて正確に読みとれないところものこるが、そのまま紹介してみよう。
右の二冊である。
このうち、「村中安全」の語は、どの綴にも裏表紙に大きくかかれている。稲荷あるいは流行神にかぎらず、村持ちで信仰・祭祀を維持するときの、常用の祈願語であろう。それ以上のかきこみはこの惣十稲荷流行の宗教的な興奮をきっかけにして、村人が日頃願望していることの一端があらわれたもののようにうけとられる。
前者は、和歌の形式をとっている。これを記した「一歩」は、隣村立川(柴崎)村の在村俳人である。市域の在村俳人とももちろん交際がふかかった人物である。史料的には大神村の季翠中村嘉右衛門家の句合に登場して、句をのこしている。
春雨や紙衣(かみこ)やろふそ弱法師 一歩
おそらく、立川の村役人層の一人であったのだろう。惣十稲荷の流行初期に上川原村をおとずれ、俳諧仲間でもあった七郎右衛門の家にやってきて、帳簿じめなどを手伝いながら、日頃の自分たちの願望を歌にし、乞われるままに裏表紙に記したものであろうか。墨のかすれた筆で、かんたんに走りがきされている。
前者一行目「たみ草」とは単純には民(たみ)のことだが、「人が多く生れ出づるのを草に喩(たと)へていふ」(『大漢和辞典』)という語義が示すように、繁栄する状態の民をとくに指していうときにつかわれる。また、「いやしき民草たりともよき歌よむべし」の用例(『日本国語大辞典』)ように、身分のひくい民にも何らかの高い価値をみとめようとする一種の誇称的な意味をふくんでいる。似ているものに。「草莽(そうもう)」という語がある。草むら転じて在野・民間の人ということだが、わざわざ「草莽」という語をつかうときは、その人が在野にあることの正しさあるいは主体性をとくに評価する意味あいがこめられる(高木俊輔「草莽意識・「草莽崛起論」-維新変革の在村的諸潮流に関連して-」『維新変革の在村的諸潮流』所収)。民の姿を草に託した表現として一つの共通性をもっている。「[ ]うれし野」とよみとれるところは、野に草のさかんに萠えいずる姿にかけて「嬉し野」と詠ったものだろうか。民のうれしさ、つまり民が幸せに心おどらせているさまであろう。
歌にこめられた意味は、おのずから明らかだろう。天珠の神すなわち稲荷神の恵みのもとで、たとえ身分がひくくとも価値ある正しい民が、幸福をよろこび繁栄するさまを願い讃えたものである。
後者は、名主の七郎右衛門がかきこんだものであろうか。句読点をいれると天平泰正・五穀成就・国土安穏・風雨随時・郷邑満足・村中安全・諸民息災・家内安寧・子孫繁栄の九項目となる。どれも語そのものとしては、日常祈願などに古くからつかわれている語である。しかし天保の飢饉前後の全国的な社会不安、多摩地方連年の天候不順と凶作、村落秩序の動揺などを背景に、流行神高揚期の宗教的興奮と緊張のなかで民の幸福を期待し、九項目も書きつづられているのである。祈願文にこめられた村人の社会的願望の意味はふかいものがあろう。
「天平泰正」というつかいかたは、今のところ他に例を知らない。ふつうは「天下泰平」である。「泰盛」というつかい方もないではない。わざわざ「泰正」としたところを見ると、この世全体に正義がおこなわれるように期待をこめた造語であろうか。とくに民の側から天下泰平を主張するばあい、幕末などには「天下泰平世直シ」(慶応二年武州世直し一揆の籏の語。『武州世直し一揆史料』(二)一一一頁)などと、世の変革を期待してつかわれることがおおい。ここでの「天平泰正」も、明確に自覚されているわけではないが、なにげない日常的願望のなかにかくされている、民の価値・世の変革・正義の実現などへの期待が、信仰の高揚に触発されて、表面にあらわれたものとみることができよう。天保期段階の昭島ではまだこのような祈願語の形でしかあらわれてこないが、日本全体にひろげてみれば、世直しの主張や創唱宗教の救済予言などに相通ずるところがあるものと見てよいであろう。惣十稲荷の再興にまつわる「流行神」と、その信仰を維持してゆく村人の動向のなかに、封建社会の解体期にあって、つぎの時代への変革を模索する人々の多様な願望をよみとることができよう。
村落の信仰ひいては村人の精神は、このように多様化し、また広域化し、はやりすたりも激しく、流動化しつつあった。もはや、近世初頭のような、一村が氏神と菩提寺だけにまとまっていた、封建社会にとって正統な信仰秩序はくずれさっていた。人々の心は、次の社会を迎えようとしているのである。