A 拝島大師信仰圏のひろがり

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 ここで、信仰心の広域化を顕著にあらわしている例として、拝島村本覚院の大般若経の納経寄進者のようすと、成田・鹿島・伊勢などに参詣旅行をした村人の「道中日記」に眼をうつしてみよう。
 近世中~後期は、前項までみてきたとおり、一村の氏神と菩提寺のなかだけに信仰がまとまりつづける正統な状態は、しだいにしりぞいてゆき、たとえば「流行神」のように村民の信仰心は多様化し流動化し、村をこえてたがいに入り組みながら広域化していった。その村の経済的地理的な状況や、信仰対象の様子によってひろいせまいのちがいはあっても、そこに一つの地域的な小信仰圏が村という支配単位をこえて形成されていることを示している。たとえば上川原村の「惣十稲荷」の流行ぶりにひかれて参詣して多額の奉納をしたものが、今の市域をこえて、熊川村・砂川村・柴崎村からきていたことも、短期間ではあるが村をこえた小信仰圏の成立の一例であろう。
 こうしたなかで、大師信仰・大日信仰・不動信仰などとくに密教系の呪術的な信仰は、伝統的な力もあいまって、「流行神」以上の広い範囲に、長期の永続した信者・参詣者をもつようになっていた。仏教諸宗のなかでも日常的な地域信仰圏が、もっとも成立しやすかったのである。たとえば市域では、拝島村の「元三大師」をあげることができる。「拝島大師」ともよばれて、村域はもちろん、今の市域をもこえて、多摩郡から入間郡にかけての広い信仰圏を形成していた。次項でのべるように、昭島地域の村民が伊勢・成田・鹿島・御岳などの参詣に村をこえて出掛けてゆくことも、信仰心の多様化・流動化・広域化であったが、他地域の村からみれば、「拝島大師」へ村をこえて参詣にくることも、同じ現象だったわけである。いずれにしろ、近世中~後期には、村をこえて相互に入りくみながら人々は参詣に往来し、庶民レベルで日本全域が一つにつながった文化領域の姿をとるような方向に向っていたのである。

新しい本覚院山門全景