本覚院は、開山が天正六(一五七八)年で、本節「一近世村落と寺社」の項で紹介したような開山伝承をもっている。二回ほどの火災の痛手大きく、『新編武蔵風土記稿』も、「本覚院……文化ノ初、回禄(火災のこと)セシ故開山詳ナラス……元三大師 堂焼失後イマタ再造ニ及バス……毎年正月三日近里ヨリ参詣群集ヲナセリ」と記し、再建できないままでも正月三日の縁日には大勢の参詣者があったことを伝えている。このような状態のなかで再建にこぎつけたのは、源俊という住僧であった。言いつたえによると、源俊は、武州多摩郡を中心に、大菩薩峠ふもとや入間郡・相州にまで足をのばして勧進の行脚をし、文政三(一八二〇)年に本堂が建立されるにいたった。それ以後ここの参詣者の範囲がひろがり、今でも、そのときの勧進先の青梅市の奥や相模原市の方から護摩行をうけにくるものがいるという(本覚院故川勝宗賢師談)。この再建勧進先の範囲の全貌はわからないが、おそらくその範囲とほゞ同じ地域が基礎になって行われたのが、約三〇年後嘉永三(一八五〇)年の大般若経納経勧進であったわけであろう。