D 大般若経の納経者

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 各巻末の寄進納経者名の記入のしかたをみると、第一巻は日付のみで「嘉永三辰年六日廿一日」とある。第六〇〇巻目には「拝島山元三大師宝殿 当什物  別当 本覚院」とある。のこりの五八七巻(第四五四巻目が、いつのころからか失われているが)のほとんどには、たとえばつぎのように、納経者名・村名・先祖供養願文などがかかれている。
   (第三巻目)
   天保三辰年三月四日
    為梅月散隠信女菩提也
             施主 勝楽寺邑
                 粕谷長兵衛母
   (第十四巻目)
   先祖代々
             小川新田
                  小野治兵衛
   (第十八巻目)
    為家内安全    武州多摩郡
                小川新田
                 広間亦七
 この例のように、家族でさいきん亡くなったもの、あるいは先祖代々の菩提をとむらうもの家内安全を祈願するもののほか、村中安全・武運長久・子孫長久などの祈願をしているもの、ただ村名・人名のみを記しているばあいも少なくない。

大般若経と寄進者名など書きこみ

 村名・人名をみると、大部分が多摩郡のもので、隣接する入間郡・高麗郡の若干をふくめると、ほとんどが西武州の農村・宿場である。のこりは、江戸・甲州・江州である。江戸は浅草花川戸・御成道・麹町・四谷などから一〇巻分たらずであるが、いずれも屋号をつけているところからみて、拝島に来往する機会をもつ商人であろう。甲州は都留郡松留村一巻分、江州は神崎郡木流村四巻分・野洲郡江頭村一巻分である。いずれも先祖のものと思われる戒名をかいて菩提をとむらっている。
 拝島と江州(今の滋賀県)との一見突飛なむすびつきは、拝島の経済的~文化的な特徴をよく物語っているものと思われるので、はじめに検討してみることにしよう。