多摩郡と近江国のむすびつきといえば、近世後期に入って発達しはじめた多摩特産の織物を、上方へも売込むために、八王子市などへ買付けにやってくる近江商人の活躍が考えられる。
『八王子織物史』によれば、幕末に近づくにつれて八王子市へは「江戸商人は別て多分之品々買入来候」(安政七年)のように、かなりの大量買付けをする江州商人があらわれていたらしい(同六七四~七頁)。同じく拝島村でも、たとえば百姓安兵衛には「年来私方得意にて、織物注文等受候江州神崎郡佐留村須田屋彦九郎……彦九郎手代文七出府いたし、当節私方え逗留罷在候」という江州商人の得意先があったという(同六七七頁)。
昭島市域の史料では、もう少しさかのぼって、すでに文政年間から近江商人の往来のはげしかったことが記録されている。八王子と昭島市域を結ぶ築地の渡しの「船勧化」(船の建造などのための割当て寄附金のこと)のさい中神村では「前々より村方へ出し分は金壱分也、江州客人多相成候間、此前時より金壱分まし金弐分出し候」(中野久次郎『諸用日記控』文政一一(一八二八)年七月二日条)のように、渡し船のお客に江州商人がおおくなったので、金壱分を増して前回の倍額を出したというのである。文政末年には、すでに船勧化に影響するほどまでに、江州商人が多摩川をわたって昭島市域へひんぱんにやってきていたらしい。さきの拝島に逗留する得意先というのも、文政末年以前からつづいていたものだろう。大般若経納経者のなかにまじっていた江州人は、おそらくこのような織物買付の江州商人であったと思われる。
こうして拝島が、江州商人と経済的に一定の結びつきをもっていたということは、拝島が、八王子を中心とする多摩の経済~文化圏のなかにふくまれながらも、八王子とは相対的に独立した経済的位置にあって、独自の経済的文化的宗教的な吸引力をもっていたことを示しているであろう。とすれば、ここに一つの地域小経済圏~文化圏~信仰圏の核としての拝島の姿がうかびあがってきたことになる。