すでに第三章第一節二・三項でくわしく述べられているように、拝島はかなり早くから町場としての機能・景観をもつようになっていた。日光道の宿場・渡船場として交通の要地をなし、早くから三・九日に織物市がひらかれていた。少くとも天明初年までは、小さいながら青梅・八王子・扇町屋・五日市・伊奈・平井などと並ぶ織物市として、年間五~六千疋の集荷量を保っていたらしい。かなりの広さの地域の経済的な核をなしていたが、天明以降は八王子市におされて織物市そのものはおとろえてしまった。しかし文化年間には、まだ江戸の三井と直接取引をする集荷問屋らしき商人が三人ほどいたとされており(伊藤好一『近世在方市の構造』一〇五頁)、あるていどの自立性をのこしていたものと思われる。織物関係では、このほかに紺屋稼ぎが少くとも二軒(文政年間)はあり、染色を依頼する織子農民の出入りも多かったと思われる。
織物以外では、多摩川・秋川の合流点という地理的条件もあって、「青梅材」とよばれた江戸向け建築用材木の筏流しの定宿がさかえていた。「筏宿」には、仕事柄かなりの高賃金をとる筏師がとまり、金遣いも派手で拝島にかなりの遊興費をおとしていたらしい。また筏の上荷として、運賃をとって木炭・薪・杉皮・板材などが積まれたが、これを集荷する「上荷主仲間」もでき、小河岸場をもつ集荷地としての姿をとるようにもなっていた(第三章第一節、多摩川の筏流しの項参照)。
また、水車稼ぎもさかんであった。玉川上水の分水が宿の真中を流れていたが、冥加金をおさめてこれを利用する権利をえた豪農商が、幕末~明治初年頃一〇ケ所以上に水車をかけていた。用途はもちろん小麦・そばなどの製粉が主で、第三章第一節二水車稼ぎの項第七表のように、一台あたりの臼の数も多く、製粉業として近隣のかなりひろい範囲の村々をひきつける力をもっていたものと思われる。
そのうえ、ちょうど本覚院大般若経の納経が完結した年には拝島市の復活が実現した。第三章第一節二「嘉永の市再興」でくわしくのべられているように、暫定的に年四回ではあったが、周辺地域の在郷商人たちが大勢出店してくれるように、さまざまな便宜をはかる申合せを、上中下三宿が一致して議定している。この時期は、いわば拝島の一つの経済的な高揚期でもあったわけである。
さきの大般若経納経者のなかにあらわれていた遠い江州の村名・人名も、こうした拝島の経済的な高揚~吸引力にひきつけられ、同時にまたそれを支える一つの力ともなっていた江州商人やその手代たちのものであった。
いずれにしても拝島が、商品・物資・人馬の往来・集散のさかんな一拠点として、多摩地方のなかでも一つの自立した小経済圏の核としての機能をはたしていたとみてよいであろう。