H 奉額句合にみる拝島大師の信仰圏

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 『武州拝島山王宮両大師両所万代奉額句合』と題され、開巻されたのが「嘉永六年丑正月十八日」とあるから、大般若経の納経後まもなく計画され・募句がおこなわれた句合である。「両大師」とは、元三大師慈恵と慈眼大師天海のこと。幕府に仕えた天海に縁のふかい川越喜多院と上野寛永寺のばあいのみこの二人を並べて両大師とよんでおり、本覚院でもおそらく寛永寺の権威にまねて両大師をまつり、「拝島両大師」と称していたと伝えられている(本覚院故川勝宗賢師教示)。このことは、拝島大師が一定の信仰圏内の農商庶民層を基盤としていると同時に、一方で幕府ないし将軍菩提所である寛永寺の、宗教的権威をかりることによって成りたっていたことを示していよう。近世寺社の庶民的要素と政治支配的要素の二側面を象徴しているものといえる。
 ところで奉額句合の方をみると、こうである。主催者は「企 玉垣連 谷ケ貫 千龝(秋)庵泰賀」で、入間郡谷ヶ貫村(今、入間市)の人物である。判者は江戸の宗匠連のほかに、谷ヶ貫・中神・金子(入間郡)、飯能(高麗郡)、福生(多摩郡)から出ており、募句の中心が入間郡西端部にあったとみられる。したがって、そこに応募してきた俳人の居住村は、拝島と入間郡西端部の二ケ所を求心点とする一種の楕円状をなすと思われるが、俳諧の項に紹介した投稿入選者の村名を第3図にしめすとつぎのとおりである。

第3図 『武州拝島山王宮両大師両所万代奉額句合』入選者居住村分布

 これをみると、北の方面は、さすがに主催者の居住する入間郡谷ケ貫村とその隣村に集中し、そこを中心に、所沢から入間郡のかなり奥の川越まで、飯能の方は吾野(秩父郡)までひろがっている。南の方は、八王子など一・二をのぞくとほとんどが多摩川・秋川の北岸までである。谷ヶ貫村俳人連の俳諧における交流圏の限界線であろう。とすると、この句合入選者の分布圏は、大般若経納経者の分布圏の少し外側をふくみながら、そのほぼ北半分の地域を示しているものといえよう。
 もう一つ明治期のものであるが、納経者分布圏とほぼ重さなる範囲を示してくれる史料がある。『武陽拝島両大師永代奉額并日吉連々号披露句集 四季乱題三句合』と題されたものである。明治二一年三月一五日の開巻を期して募られたもので、拝島の俳諧グループが「日吉連」という名称をつけたことの披露をかねた奉額句合である。谷ヶ貫連の句合よりも正確に拝島の信仰圏ないし文化圏のようすを示してくれている。史料は、募集を広告する刷物だけで(撰者のひとり川口村南雲斎竜子(秋山国三郎)の子孫秋山泰子氏所蔵。小沢勝美氏教示。)、句合集・奉額の実物は見られないが、そのなかに「補助」の名目で、この句合の募集に協力する俳人の村名・俳号が三〇名分記されている。その分布を略図にしてみると、第4図のようになる。

第4図 明治21年『武陽拝島両大師永代奉額并日吉連々号披露句集四季乱題三句合』補助者居住村分布

 補助者の居住村であるからやや狭いが、実際に応募するものは補助者の周辺村々をふくむであろうから、全体はさきの納経者分布と、北半分は谷ヶ貫連の奉額句合参加者分布と、ほぼかさなるものとみてよいであろう。