いずれにしても、拝島の信仰圏~文化圏をえがくとすれば、八王子-府中-所沢-飯能-青梅-五日市を結ぶ線とその隣接する周辺村々をふくむ地域がふくまれることになるであろう。
これらの地域が、昭島市域の豪農~在郷商人の日常的な経済圏であったことは、第三章第三節・第四章第二節ですでに見てきたとおりである。たとえば、有力な在方縞買である中神村中野久次郎は、手代や息子あるいは商品運搬の傭人などをたえず飯能・所沢などにおくっていた。また筏の上荷となるであろう杉皮などの集荷も所沢辺からしている。もちろん八王子には店も出して縞仲買をおこなっていた。上川原村指田七郎右衛門の糸繭商経営においても天保年間の繭仕入先は、やはりこの圏の中藤村など狭山丘陵南麓の村々であった。大神村中村嘉右衛門の織元経営にとっても、原料繭の購入先はこの圏内の南端である鑓水村の五郎吉家であった。拝島村の紺屋惣吉・勇右衛門がぞくする多摩郡紺屋仲間四九人の分布地域も、この圏のほぼ西半分にあたっていた。このように、市域の豪農商連のさまざまな経営がそれぞれ必須としている経済的な地盤をあわせると、ほぼこの拝島の信仰圏~文化圏にかさなることになろう。
昭島からみて右のようであったことは、逆にそれらの村々からみれば、昭島をそれぞれ経済的に必須としていることになる。そのなかで拝島は交通・流通の一拠点として、それらの地域の人々が日常的に往来するところとなっていたわけである。
もちろんそれぞれの村では、それぞれの村落内の寺院・神社が伝統的慣習的な信仰の対象とされてはいたであろうう。しかしすでに商品経済の発達によって、人々の物の考え方が商品・貨幣・流通・交通を中心に「金子可二貪取一心底」で動くようになっており、信仰心そのものが、現世利益をもとめて村落の外に拡散し多様化し稀薄化して止まるところを知らないという段階にあった。ひいては日本全域を一つにするまで拡散しつづける性質のものであった。それらの村々からみれば、村落内から日本全域へ向けての拡散過程途中の手頃な距離に位置していたものが、「拝島の大師さま」だったことになる。
このように、拝島大師の信仰圏の拡大は、拝島からみれば、地域経済圏に生きる庶民の力によって大師信仰がいっそう隆盛になるということであったが、日本全体の庶民の歴史からみれば、閉鎖的な村落からの解放現象の一つの段階に立っていたことになる。昭島の村々で、入間郡の村々で、ひろくは日本全域の村々で、いまだ呪術的信仰そのものからの直接の解放ではなかったが、その拡散・多様化・稀薄化という形で、封建秩序にふさわしい村落的精神世界が崩壊し、商品・貨幣・流通・交通が日本全域を一つの精神世界につないでゆく動きがすすんでいたのである。