F 参詣旅行をおこなえた人々

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 こうした信仰と物見遊山の旅行は、なかば習慣的におこなわれていたとはいえ、農村内部でいえば、村役人~豪農層にぞくする限られた農民だけに実行できることであった。費用をみると、天保四年の伊勢参宮のばあい、期間六五日間に金一両二分・銭一三貫八一一文がつかわれている。これを同年春の銭相場と米相場によって米に換算すると、三石余り(約五五〇キログラム)にあたる金額である。また金納年貢に換算すると、市域でいちばん小さい上川原村の一年間の全年貢高の五分の一をこえる額にあたる。このあたりの平均的な小農民一人のおさめる分でいえば、少くとも十数人分にあたる額である。当時としてはかなりな高額であった。
 したがって、下層農民や商人・職人の丁稚・徒弟らにとっては、計画的な参詣旅行はほとんど不可能だったことになる。それだけに「一種の自己解放」への欲求は、豪農層以上につよかったことであろう。いわゆる「おかげまいり」が、ほとんどのばあい、着のみ着のままだれにもことわらずに主家をとびだしてきた無一文の下層庶民を中心に、爆発的に群集化しておこり、行く先々で酒食・わらじなどの施行をうけながら参宮する「ぬけまいり」の形をとっていたのは、こうした事情を物語っていよう。
 このようにして近世をつうじて村人の信仰心~精神は、商品経済の発達につれて、多様化・流動化・拡大化しつつ、物見遊山と歓楽、好奇心・知識欲の満足をもかねながら、寺社参詣旅行という形で「一種の自己解放」がすすんでいたのである。昭島の在村文化は、日本列島を一つとする多様な方向にひろがりつつ、つぎの新しい時代精神の到来をまちかまえるようになっていた。