A 高山彦九郎のみた拝島

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 前節までは、市域村々および多摩郡内近隣にのこされた史料から、近世昭島の在村文化の発展のようすをみてきた。ここでは、視点を当代著名な文化人にうつし、かれらが書きのこしておいた昭島の村々のようすや、在村文化の状態を紹介してみたい。
 昭島の村々について、どんな断片的な記述でもよいから残した人を採りあげるとすれば、安永年間(一七七二-八一)にさかのぼって、高山彦九郎(一七四七-九三)がいる。
 彦九郎は上野国(群馬県)新田郡細谷村の郷士の生れの人、少年の頃『太平記』をよみ、先祖が新田義貞につながることを知って尊王の志をいだくようになり、青年期、京にのぼって三条大橋にぬかずいて内裏を拝したり、足利尊氏の墓を鞭打つたりする奇行伝説で知られるようになった。林子平・蒲生君平とともに「寛政の三奇人」とも称せられた(奇人については第二節二を参照のこと)。しばしば旅にでていくつもの旅日記をのこしているが、最後は幕吏に追われる身となり、九州の行脚先で自刃せねばならなくなった。竹内式部・山県大貳とともに尊王論者の先駆の一人である。
 彦九郎は、いくつかの旅日記のなかで、二回ほど昭島市域の村についてふれている。一回は、三一歳安永六(一七七七)年三月一日、江戸から甲州街道を身延山に向う『丁酉旅日記』である。「青(青柳か)を経てたち川(立川)茶や有り、是レ西拝島へ二里といふ」(『高山彦九郎全集』一、所収)とのみ記している。
 この日は、立川の茶屋から多摩川をわたって八王子に宿泊、一路甲州街道を西へ急いだから、道しるべで拝島にひとことふれただけで、市域に足をふみ入れたわけではなかった。
 二回目は、三四歳のとき安永九(一七八〇)年の『富士山紀行』である。このときは、郷里から高林・妻沼・熊谷をとおって荒川をこえたあと、高坂・坂戸・高萩・根岸・二本木と日光道をとおり、拝島から八王子経由で小仏峠をこえていった。六月一一日坂戸宿を発って拝島村をとおりぬけながら、つぎのような記述をのこしている。
  箱根ケ崎より多摩郡なり、二本木より二十六丁箱根崎より拝嶋へ二里八丁正南也、箱根ケ崎より壱里気斗(ばか)り行きて芝の上に休(いこ)ふ、古里村十蔵なるもの兄の病をいのりて平癒せしめむとて高尾山へ行きしと同道し拝島にて姑(しばら)く休(いこ)ひぬ、町の右に玉水禅窟と額をカケタル寺あり、龍津(シン)寺とて三石の御朱印附く、次に左り大日堂山門あり御朱印十石、拝島まで石道にて歩行に宜からず、多摩郡(マヽ、川カ)を舟にて渡る、山を越てたつ山(マヽ、たき山カ)村次に尾崎村また坂を上り行き下りてあさ川を歩にて渡り八王子駅に至る、暮に及て記伊(マヽ)路屋に宿る、十蔵も同宿す(同前)
 この日彦九郎は、途中でいっしょになった十蔵という人物(兄に悌順を尽すといういかにも彦九郎ごのみの道徳的な人物)といっしょに拝島で休憩をとり、龍津寺と大日堂の山門に眼をとめながら、おそらく川原石むきだしのままの歩きにくい道であったのだろう、「歩行に宜(よろし)からず」という印象だけをのこして通過している。
 「玉水禅窟」の文字は、彦九郎が眼にとめただけあって大陸の書風による達筆で、由緒深げなものである。拝島宿の街道に直接面しており、ここの名物の一つでもあったようである。のちに大田南畝もこの扁額に眼をとめ、『調布日記』にこう記している。
  拝島村に玉水禅窟と額かけし寺あり、宿の主甚五右衛門にとへば、玉應山竜津寺禅宗なり、額は清人銭唐周道の書なりと云
また『新編武蔵風土記稿』(文化七~文政一一年)も「両柱ノ間九尺玉水禅崛(マヽ)ノ四大字ヲ扁ス、銭塘周道カ筆ナリ」と記し、『武蔵名勝図会』(文政三年)も「惣門玉水禅窟ノ横額、銭唐周道書」としている。
 現在、山門にのこされている扁額はうえの写真のとおりである。

竜津寺山門扁額

 また裏面には今でもつぎのような文字が刻まれている。(したがって南畝の「清人銭唐周道」はききまちがいであろう。)
         朝鮮国周道書
    安永二巳稔九月
         当山九世東海代
              施主当所臼井八郎兵衛
 安永二年は西暦一七七三年、「周道」と名のる人物のことは、この文字を拝島にのこした事情もふくめて今のところ何もわからない。後半二行は扁額の費用を拝島村の臼井八郎右衛門が施主となって提供し、竜津寺九世の住僧東海のときに奉じた、という意味である。
 表の「玉水禅窟」の文字は、書家の眼からみると、いくつかの点で明らかに日本風の楷書とは異なっていることが指摘される。まず、玉の第三画中央横線が左に大きくつきでている。水の左のと右のの角の高さが、極端に左高右低である。禅の右のつくりの上の三点が、の二点になり、窟の出の右肩の点がなく、そのまま止めただけでになっている。全体に字が丸みをおびており、左端に署名なども入れずに四文字をゆったりと配置している。禅と窟の字間のつまりをあまり感じさせないところなども、悠揚迫らざる名筆である(書家椎葉海嶽氏教示による)。彦九郎・南畝らが印象深げに眼をとめたのも道理である。
 近世までの日本にとって、朝鮮の文物は文化の先進地からもたらされたものとして大切に尊ぶのが常であった。将軍の代替りごとに江戸を来訪する朝鮮使節(朝鮮通信使などとよばれた)の一行と、漢詩文を交換したり、学問の教えを乞うたりする機会を、先をあらそって得ようとする儒者・医者も多かった。通信使の随員が扁額をのこしている例も、近江国江国寺本堂などにみられる(李進熙『李朝の通信使』七三頁)。ここ拝島村の豪農が施主となって、街道に面した山門に掲げられ、永年にわたって村人や旅人に少なからぬ印象を与えつづけてきたこの「朝鮮国周道書」の名筆は、朝鮮文化への崇敬心の、在村レベルでの現われの一つと言うべきであろう。
 ところで彦九郎は、このほかもう一度拝島を通っているらしい。『富士山紀行』六月一一日条の最後に「国より是迄の記ハ大山行に譲りて略し是より郡内大月辺ハ丁酉旅行にあり略し侍る」と記している。拝島近辺のことは、『大山行』の旅日記にくわしいらしいが、残念なことにこの日記はまだ発見されていない(同全集注記による)。いずれにせよ高山彦九郎は少くとも三回、拝島を通過してしばしの憩いをとっていたものと思われる。