大田蜀山人自筆短冊(竜津寺蔵)
大田南畝の先祖は、同じ多摩郡の鯉ケ窪(恋が窪。現在の国分寺市)の出身という伝承をもっている家で、南畝誕生(一七四九)頃は、江戸牛込御徒町に住む幕府の下級家臣七〇俵五人扶持御徒(おかち)の職分にあった。幼時から神童とうたわれるほどの記憶力の持主であった。成人してからは狂詩・狂歌にとくに秀れた才をしめしたほか、洒落本・黄表紙などにも手をそめていた。当代一級の文化人との交流も深く、江戸市民のあいだでも評判が高かった。寛政改革の文武奨励策を批判した狂歌として名高い「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふて夜もねられず」も、南畝の作だと世に伝えられるほどであった。
南畝四〇歳ごろ天明末年から寛政初年にかけて、田沼一派への粛正や文学作家への弾圧政策がすすめられ、南畝の友人や文学仲間にも累が及んだこともあってか、文人としてよりも官吏として出世する道に方向転換をしたらしい。四六歳のとき官吏登用試験をうけ、御目見得以下の下層身分のなかでは主席で合格、勘定奉行にぞくする支配勘定の役について百俵五人扶持にのぼった。そして孝行奇特者取調御用・御勘定所諸帳面取調御用をつとめたあと、大坂銅座詰・長崎奉行所詰など遠地の下級幕吏の職を歴任し、身分のわりにはやゝ恵まれた道をあゆんで文化二(一八〇五)年に江戸にもどってきた(蜀山人は、大坂在住のころつけた号)。そして文化五年暮、六〇歳の南畝に玉川堤坊巡視の命がくだった。真冬に数か月にわたる(「風寒栗烈如裂膚」(南畝)のような)激務を命ぜられた背景には、南畝のあるていどの出世の早さや、文化人として大名との交際のあったことなどへのねたみがあったのではないか、とも推定されている(以上、浜田義一郎『大田南畝』人物叢書一〇二による)。ともかくも、博覧強記で知識欲旺盛のうえに、人もおどろくほど筆まめな南畝が、いくつかの記録をのこしてくれたことは、昭島の村々にとっては、貴重であった。