D 昭島市域に足をふみいれた南畝

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  三日晴、朝とく監使にしたがひて、日野本郷下堰の用水を見、やぶ川の末石河川のほとりをすぎ、橋をわたりて粟の須村に入り、又橋をわたりて柴崎村と外二ケ村組合の堤を見、焼火してあたり、大神村の名主石川八郎右衛門かもとに昼餉す、此庭も又きのふの昼いこひし富右衛門が庭にゆづらず、岸高くして玉川を見おろし、むかひに山々連りて、風景いはんかたなし、拝島の用水を見、高月村にいれば、秋川のなかれきよく、柿の木多し、円通寺の前よりたゝちに拝島のやとりにつきぬ、あるじを島田甚五右衛門といふ、
 冬の晴天のもとで、はじめてみた昭島市域の多摩川や周辺の山なみの様子を、「風景いはんかたなし」とたたえている。石川八郎右衛門は、今の石川弘家、島田甚五右衛門は、島田タダ家である。「拝島の用水」とあるのは、おそらく拝島村から柴崎村までの九ヵ村の組合用水のことであろう(第二章第二節三参照)。
 四日の日も、快晴北風のなかを玉川上水の取水口を視察しに羽村に向ったが、途中、拝島の水車や、段丘上の畑の桑に眼をとめながら、やはり景色が絵にかきたいほどすばらしいと感嘆している。
  四日晴北風、卯の時ばかりに起て、監使の荒川の方にうつり給ふを送りて、拝島拝島は八王子千人同心日光に往来する道なりのやどりにかへり、朝飯をくひ、羽村の方にゆかんとて出たつ、拝島の宿を出て、水車のある農家のかたはらより、畑に出れは桑の木多し、熊川村の林中よりむかふに富士の雪しろくなかばばかり見えし景色絵にもかゝまほし、やゝありて上水の堤に出たり、