此村に臼井源左衛門といふものあり、同村普妙院にある所の大日如来の縁起を蔵む、あるじに乞ふてみるに
縁起文玉川披砂巻上にありよって省略することゝせり本帋布目のきら引にして手跡もつたなからす、又同村臼井伝左衛門が家に蔵る所の古陶器をも見せし六百年程の古器といへと未詳
臼井伝左衛門家蔵の古陶器については、よほど珍しく思ったのであろう、その略図を『玉川披砂』につぎのようにえがいている。
拝島村臼井伝左衛門所持古陶器
翌五日は、拝島の宿を出たあと、大日堂に参詣し、多摩川をわたって八王子に向った。
五日晴、辰のときにやどりいでゝ、大日にまうでんとす、門前に読法華千部の碑あり石灰になる白き石あり臼井八郎兵衛の建る所なり、門の額に密厳浄土寺とあり宮方の書にやいづれにも高貴の人の書なるべし石坂を上りて本堂あり、大日堂の額は三井親和の書なり、左に山王の社あり、右に薬師堂あり、門内に弁天の小社あり、その隣に元三大師の堂みゆ、河原に出て柴橋をわたり小径を上る事六七町初沢といふ所なり、
このあと八王子では、「こゝに松原庵星布といふ尼誹諧の点者なり、人はしらせて発句をこふ、行年七八歳としるせり」とも記している(星布については第二節参照)。
さて、二月にやってきたときは雨つづきであった。是政を出て柴崎で昼食をとったあと、郷地村・福島村・中神・大神村をへて拝島に宿泊した。途中休息をとった中神村中野久次郎家では、その縞仲買の経営についてふれている。また二度目の宿泊場となった島田甚五右衛門には、得意の狂詩をものして贈っている。
郷地村福島村をへて、中神村にいる、右に石坂ありて熊野権現を祭る、左の方なる中神久次郎小普請坪内半三郎知行の家にいこふ、此村の豪家にして、すべて八王子の辺より出る絹布の類をひさぎ、都下の呉服あきなふものゝ家にわたすといふ、玄関に克己復礼の四字の額あり蕉堅書家居ひろくすみなして、庭の立石見どころあり、大神村をへて拝島のやどりにつき、里正島田甚五右衛門が家に宿す、むつき三日四日にやどりし家なり、四日は甲子なりしかば、甲子の狂歌なと書て贈りしに、とく〓〓して床にかけ置たりき、
十三日、終日雨ふりぬれば同じやどりにとゝまる
十四日、朝くもれるが、昼つかた晴ぬ、今朝は官長の出立給ふを送りてやどりに帰り、又立いでゝ羽村の方にむかふ、
この日はふたたび拝島にもどってくるが、そのあいだに、五ノ神村に「又古き鋳物師(いもじ)の家あり、むかし奈良の大仏を鋳させ給ひし時の綸旨(天皇の命令書のこと)をもてり」と聞いてたずねたが目的をはたせなかったり、熊川村では「名主幸蔵が家に北条家の古文書ありときゝて」たずねるが、あいにく主人が留守だったところ、「夜にいりて拝島のやどりにふりはへ携へ来れるもうれし」かったと記すなど、役目はそっちのけのようにして、旺盛な知識欲ぶりを見せている。拝島でも、甚五右衛門に、竜津寺の周道の扁額についてたずねたり(本項A参照)、寺宝の「非殿司の大黒の画一軸」などもってこさせて見ている。『玉川披砂』では、さきの安永二(一七七三)年の扁額のほかに、「多摩郡拝島村竜津寺ニ額アリ、玉応山ト書セリ辛卯春二月銭唐周道ト名アリ」と記して、もう一つ周道の書いた額のあったことを伝えている。現在は残されていないらしい。辛卯の年は明和八(一七七一)年であろうから、南畝の記載が正しいとすれば、朝鮮国周道なる人物は、この寺に三年以上滞在していたのかもしれない。村人とも交際していたことであろう。