F 南畝のみた昭島の情景

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 三度目は、もはや任務も終りにちかい三月の末であった。日野から粟ノ須をへて多摩川をわたり、大神村から田中村をへて拝島へ入った。今度は、竜津寺の境内にも入って、本堂の聯や鐘の銘をかきとめ、滝山城趾を借景にした庭園のようすを、「自然の景勝のごとし」と賞しながら、つぎのように記している。
  河原の茶屋にいこひ、柴橋をわたり河原をゆき、大神村の里正幸助かもとにやすらふ、田中村をへて拝島にいたり、村の中なる玉応山龍津寺にいりてみる、本堂の聯に霧海之南針夜途之北斗とあり、鐘の銘は寛延四龍集辛未年季秋穀旦、玉応山龍津禅寺現住活宗誌焉とありて、先師天山和尚臥千毘那、至干寂知時到而告予日、当山者、有天寧四世説翁星訓和尚開闘之道場、而逓代諸師、董席唱道故叢林法器無不備、啻闕洪鐘一口耳、吾為本師朝山和尚報恩造補之志願云々下略、庭にいりてみれば川をへだてゝむかふにみゆる滝山、ならびに北条氏の古城址の山をこなたの庭に引いれて、地(マヽ、池カ)めいてくぼめる所あり、又石たてゝ窟の形をなして、仙人窟となつく、これより下をみれば用水のながれきよく、麦畑の風涼し、庭の山には苔ふかく、古木枝をまじへて自然の景勝のごとし、住持の僧出て茶菓をすゝむ、ふすまに大井川行幸のかた、住吉の松、堺のけしき、宇治のかたなとかける見所あり、此寺に住する事十九年なりといふ、庭は高崎の人にて石酔といへるもの五年かゝりて此庭をつくれりといふ、御庭つくり鎌田庭雲の門人なり、
 このあとにつづけて、「山市庵俳名梅志といへるものゝ書し自然楼の記といふ誹文あり、よむにたらされども地名の考へもあればうつし置なり」として、第二節三で紹介した五日市の酒家小兵衛の俳文をかきうつしている。
 そして末尾を、「此庭の名を観山自悟といふよし、主僧の物語なり」と結んで、竜津寺の絶景ぶりをたゝえ、この日の長い日記を終えている。
 翌二九日は、監使・官長を迎えに箱根ケ崎まで北上し、前々からぜひ見たかった狭山が池を一見して「今日はじめて見る事を得たるもうれし」と満足し、拝島にもどって来る。翌四月一日は、監使に従って登戸泊り、二日は、五か月にわたる長期視察の任の終りにちかずいたことをよろこび、「翌日は故郷にかへらんとするに心あはたゞし」く、三日は、「むかひの人来るもうれしく、品川の鍵屋にいこひて酒のみ物くひ」などして江戸へ帰っていったのである。
 なおこの『調布日記』の末尾には、旅行中につくった南畝自身の歌や詩をいくつか記している。昭島に関するものだけを見るとつぎのようである。
    帰るべき日もわづか五日になりければ
  いつか/\帰らんと思ふ日数さへ
            たった五日になりにける哉
 「いつか」と「五日」をひっかけた狂歌であるが、五日を文字どおりにとれば、三月二八日拝島にやってきた日に当るであろう。
 また竜津寺の印象がよほど深かったのだろう、つぎのような漢詩もつくっている。
      拝島村過龍津禅寺
   玉水龍津古道場、到来新樹蔭清涼、庭臨絶壁苔無跡、
   松仮他山色満堂、已覚簪纓為俗物、自嘲泉石入膏盲、
   片時啜茗僧話、十九年間住此郷、
 日記は以上のとおりであるが、随筆の方にも、昭島にふれたところがいくつかある。まず『玉川砂利』では、各村の宿泊所でたべた料理をかきとめながら、こう記している。
  ○多摩郡拝島村にて温飩(うどん)をすゝむ、平に置菜あり(菜をゆでたる計也)
 また、第二節二に紹介した不老軒うたゝとの出会いにふれているのも、この『玉川砂利』である。そのほか、拝島村島田甚五右衛門宅に、松原庵星布尼とその師春秋庵白雄(しらお)の句を記した一巻があったのをかきうつしたり、さらに松原庵星布尼を訪れて、「耳もさのみうとからず、おとなしやかに健(すこやか)なる老婆也」などとも記している。どちらも、昭島の在村俳人の師であった星布の様子や、星布と昭島との結びつきを語ってくれる史料としても重要である。
 『向岡閑話』では、やはり第二節二でとりあげた不老軒うたゝに関する記述が貴重である(第二節第二項参照)。そのほか、南畝の眼にめずらしかったこととして、つぎのような記述がある。
  ○拝島宿にはやものありいふ札あり、いかなるものぞととへば葬具なりといふ、都下にてはや桶など云ふことばあり、葬事欲速(スミヤカナラン)の心なるべし。
 この地方の方言用語を目ざとく見つけて、自己流の解釈をこころみたのであろう。いかにも南畝らしい。また書画骨董好みのおもむくままに、つぎのようにも記している。
  ○多摩郡拝島村島田甚五右衛門が蔵する所二幅あり、立幅は豊干禅師と虎の目をさませし図、常信筆とあり、印右近とあり、横幅は山水にて遠山の形妙なり、水草生ひたる汀に釣舟あり、古木あり、人家あり、坂に行人あり、上に古川斎の印下の印見えがたし島田氏本姓は臼井なり臼井伝右衛門が家より養子となれり
  ○同村臼井伝右衛門か家に古き陶器あり、六百年ほどになれりといへども未詳、又臼井八郎兵衛が家にも当村の普妙院にある大日如来の縁起を蔵め置けり、普妙院の門の額に密巖浄土寺とあり縁起の中に乙畑孫三郎と云名あり、当時此村に此子孫ありて乙畑孫三郎といふ、近頃名主を退役して百姓なり、下総国臼井村に寺あり、古文書多し、すべて臼井氏の先祖は千葉介常胤より出たりといふ。