G 幕吏南畝と在村文化

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 このような南畝好みのさまざまな記述をのこしながら、玉川堤防巡察の旅は約五ケ月で終った。もと/\幕命による旅であり、多摩地方そのものの魅力が南畝をひきつけたわけではなかった。また知識欲にまかせて見聞したものはたくさんあったが、老境の南畝をふたたび多摩地方に旅させるほどの魅力はもちえなかった。いわゆる在村文化に対しても、江戸文化人の頂点の一人としての南畝は、「よむにたらざれども」という見方しかできなかった。郷地村不老軒うたゝへの関心も記述のしかたをよく見ると、うたゝその人よりも製造する「玉川浮木摺」の短冊の方にあったらしい。
 このように、多摩地方に来往した大田南畝も、所詮は武士階級の身、幕府の官吏であり、江戸の中央文化人であった。筆まめの性分と旺盛な知識欲とを満足させるなかで、多くの記述を昭島の村々についてのこしてくれはしたが、折から高揚期にあった在村文化に、直接の影響をあたえることはほとんどなかった。また南畝自身がそこから何かを学びとることもなかった。晩年にいたり、持前の知識欲が「奇書もみるにたらず、珍事もきくにあきぬ」という状態になってしまったあとは、狂歌師の名声ゆえに幕吏として出世もままならぬまま、老体を勘定所にはこびながら自嘲の歌をうたう不幸な日々が多かったらしい(嫡子は乱心。嫡孫も祖父の職務をつぐ才なく、後嗣が定まらなかったという)。文政六年七五歳で南畝は死んだ。後嗣の定まらぬ幕臣の例で、その喪は公式には二年以上も秘されたままであったという(以上浜田義一郎前掲書)。死んだあとも、都市文化文人・幕吏の限界をこえられなかったわけである。
 折から昭島市域や多摩地方全体では、すでに農村の限界をこえた在村俳人らの広範な活動・文化交流がすすみ、地域文化圏としての相対的な自立の動きを見せていた。在村文化は高揚期にさしかかっていたのである。