H 川路聖謨の玉川上水巡察

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 昭島市域に足をのばしたもう一人の人物として、幕末の政局や外交にも登場する幕吏、川路聖謨(としあきら)がいる。弘化二(一八四五)年多摩郡を巡察したときの日記に、能吏の眼で見た昭島市域やその周辺のようすをかきとめているのである。
 川路聖謨(一八〇一~六八)は、幕府下級家臣の子に生れ、小普請組川路三左衛門の養子となり、寺社奉行吟味役から、勘定吟味役に昇進、さらに佐渡奉行・普請奉行・大阪町奉行などを歴任した。とくにペリー来航直後の安政改革のもとでは勘定奉行兼海防掛に抜擢され、ロシア使節プチャーチンとの長崎交渉や、下田での日露和親条約締結交渉にのぞみ、相手側からもその外交手腕を高く評価された。大老井伊直弼政権下で一時左遷されていたが、やがて外国奉行に任じられた。数ケ月その職にあったが老令を理由に辞任したまま、明治元年江戸城明け渡しの日に拳銃自殺をとげた。幕府解体期にあって富国強兵をすすめんとする絶対主義的集権化政策をになう能吏の一人であり、またその限界のうちにみずからの命を断った人物である。
 このような経歴をもつ川路聖謨が、弘化元(一八四四)年普請奉行の職にあったとき、玉川上水の検分に出た折に記したものが『玉川日記』である。
 二月一八日、上水の取水口がある武州羽村に向けて江戸屋敷を出立、内藤新宿で分水口を検分したあと、上水にそって村々の分水口を検分しながら遡行し、野中新田名主六郎左衛門宅に止宿。一九日は、羽村取水口にある役所にむけて徒歩で検分をつづけながら、武蔵野の新田村地帯に入った。石高(年貢割当基準となる土地生産力を米に換算したもの)の低いわりに「民繁昌し」ていることに眼をつけて、つぎのような記述をのこしている。昭島市域の村々にもあてはまる面が少なくないので、紹介してみよう。

玉川上水