I 聖謨のみた武蔵野新田地帯

1263 ~ 1265 / 1551ページ
  元文之度、彼武蔵野てふ曠野をひらかれて新開に成り、二十ケ村二万石之新田出来たる也、勿論畑多にて田は至而(いたつて)少く永□((取カ)…引用者)りの場所也といふ、され共、本田の半分ならでは御取箇もなき故に民繁昌し、今にいたって高壱石に人壱人と申候よりは、いづれの村かたも人別多しといふ、享保元文之頃の人の才力、中々以(なかなかもつて)後世より可及あらず
                                     (『日本史籍協会『川路聖謨文書』二所収)
 武蔵野の新田村は、ほとんどが畑地であるため、年貢は米でなく貨幣に換算する永取りの地であるが、生産力のひくい下畑・下々畑中心のため年貢高が本田の半分ていどなので、「民繁昌」のようすにみえ、今では高一石で人一人が養えるといわれるようになって、村高のわりには村の人口が多い、と見ているのである。
 幕吏としての川路聖謨は、この「民繁昌」を、開発事業をすすめたころの幕吏たちの「享保元文之頃の人の才」がすぐれていたことに理由ずけている。しかし現実には、本編第二章第三節などに記されているように、農民の手によって早くからはじめられた農閑稼ぎ~商品生産と、その営々たる努力のつみかさねによるところが大きい。
 また、畑作地帯の真中を貫流している玉川上水との関係に眼をつけたときも、聖謨は幕吏としてつぎのような見方をしている。
  玉川より水をせきいれたらば、田にひらくも安かるべきを、畑にせしなと小智の不及ことあるへし、今よりみれば何故上水をまし、田にはいたさぬかと疑おもふ也、され共既に元文之末に至りたちまち二万石の新開せし程の人共打よりてのことなれば、中々凡智を以手を附たらば、存外の弊可出もしられぬ也、かゝる実事の有余もありてこそさくらも植けるなるべし、けふはきのふにかはり、さくらの中絶せしよりも、これ程の新開を容易につくり出したる役人の智恵の、今にひきくらべては立まさりたるを深耻おもひて、かのさくらの□□ひは兎も角も、本末の理をおもひて歎息せり
 玉川上水の水をふやして田用水に利用すればかんたんに水田ができるのに、そうせずに畑地のままに年貢負担を軽くしておいた結果、二万石相当の新開も進捗したうえに「存外の弊」もふせぎ「民繁昌し……村かたも人別多し」という状態になった、という観察である。これも、結果だけみれば武蔵野の村落の特徴をよくいいあてている。しかし聖謨が、これを当時のすぐれた「役人の智恵」によるものだと見、幕末当代の役人の無能さにくらべ歎息している点は、あくまで幕吏としての見方にとどまるものであろう。現実には、玉川上水はもっぱら江戸城下町の飲用水確保を目的としていたから、田用水への利用がほとんど無かったとしても、それは農民の負担軽減を配慮したためではなかったのである。「役人の智恵」はもっぱら幕府城下町のためだけに向けられていたはずである。
 しかし、聖謨が観察した武蔵野の村落の特徴、すなわち畑作地帯で相対的に年貢率が低く、ほぼ一定額の銭納に固定されていたために、民の手にあるていどの剰余を生みだす可能性をのこしたという点は重要である。とくに銭納年貢をおさめるために、早くから駄賃稼ぎなどの農間渡世で江戸へ出たり畑地の換金作物栽培や女子の織物生産をすすめざるをえなかったため、結果として、農民的な商品生産・流通がすすみ、本質的な貧しさは変らないものの相対的な「民繁昌」を可能にしていたことは事実だった。これまで本章でのべてきた在村文化展開の基盤が、ここにあったことはいうまでもない。しかしこの日記を記していたときから数年後には、勘定奉行兼海防掛として幕府延命のための富国強兵政策の重要なにない手となる聖謨のことである。この段階で、武蔵野新田地帯の「民繁昌」に眼をつけたのは偶然ではあるまい。ほぼ同じ頃この地の幕領支配に敏腕をふるっていた代官江川太郎左衛門が立案し、やがて文久改革において実施された農兵制が、まずはこの地方を有力な地盤としていたことも考えあわせることができよう(農兵制については第五章第二節参照)。川路や江川のこのような眼は、武蔵野にかぎらず日本中どこにおいても、幕藩領主の内外の危機に対拠する富国強兵政策の経済基盤として、わずかな「民繁昌」をも探し出し、上から掌握せずにはおかない能吏の眼であった。またそれこそが、幕末の封建的危機段階における能吏の、能吏たるゆえんでもあった。