J 能吏川路聖謨のみた昭島

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 しかし聖謨が、二月二三日に昭島市域へ足をふみいれたときいち早く見出したものは、もはや上からの直接掌握困難な、もっと積極的な「民繁昌」すなわち資本制生産の先駆形態であった。聖謨はつぎのように記した。
  廿三日 くもり 五時羽村出立いたし、拝島村・柴崎村等を経て、府中宿にいたり止宿…………○けふ(今日)行みちの辺故に、拝島村の車や藤三郎方え参りみる、是はとなりのなみ/\の水車屋よりくるま(車)の軸を引出し、夫へ種々のくるまを仕かけいと(糸)により(撚り)かくるも、わく(枠)えまく(巻)もみなくるま也、是は蚕所にてみなすることかしらねどもおもしろき也、玉川の水・上水をとりかぬるところにては、船へくるまを仕かけて川えつなぎ、こめ(米)をつか(〓)する也、めずらしき事也
 これによると、拝島村の「車や藤三郎」は、水車動力による撚糸業をいとなんでいた。藤三郎の隣りの「水車屋」から回転軸をのばしていくつもの「くるま」をしかけ、「いとによりをかくる」器具や、「わくへまく」器具などを動かしている。これはあきらかに資本制生産の先駆としての工場制手工業(マニュファクチュア)である。「おもしろき也……めずらしき事也」という感想は、それを上から掌握せずにはおかない意志の表現でもあろうが、同時にそれが領主側にとってもはや有効に対処しえない段階に達していたことへの焦躁感の表われでもあったろう。

明治以後の拝島村の水車(中島繁治氏撮影)