このような繊維加工業における水車動力の利用は、弘化二(一八四五)年頃の西武州においては、まだまだ稀少であった。八王子の天保一四(一八四三)年「農間渡世向名前書上帳」によれば、八王子宿ほか三四ヶ村組合のなかで水車稼ぎのもの三一人がいるが、「糸繰り水車」を経営しているものは一人しかいない。ところが明治初年の記録では、八王子を中心とする織物生産地帯全域に「従前ノ器具ヲ見テ之ヲ取捨シ、更ニ利便ヲ加へ製造セル」ような新しい「水車装置ノ紡糸機」をつかって「職工ニ托シ水車機械ヲ以テ紡成スル」ことがひろくおこなわれるようになっていた(『内国勧業博覧会出品解説』明治一一(一八七八)年六月)。拝島村でも、本編第三章第一節二でのべられているように、明治一四(一八八一)年には、水車一三ケ所のうち糸撚六ケ所・製糸一ケ所がいとなまれていた。明治一五年の諸営業調でも、糸撚業四・糸職工六・生糸製造一・織物業二があげられている(『拝島村誌』)。川路聖謨が弘化年間に眼をつけた水車動力の利用は、このような明治初年までに下から急速に発展をとげるマニュファクチュア経営の出発であった、とみるべきであろう。
このように、絶対主義的集権化政策をになう幕吏が眼をつけるような、資本制生産の先駆たるマニュファクチュアを、みずから生みだせる時代が昭島市域にきていたのである。封建領主として君臨してきた幕府・旗本も、封建村落としてその支配下におかれてきた昭島の村々も、ともに封建社会解体末期にあって大きくかわらねばならなかった。まもなく幕府はほろび、村々は新しい成長をとげよう。「近代」への変革の前夜にさしかかっていたわけである。
ここでもう一度、近世の昭島に足跡をのこした三人の姿をふりかえってみよう。尊王論者の「奇人」郷士高山彦九郎は一七八〇年信仰心にもえて富士山を目指しながら、「石道にて歩行に宜からず」という印象だけをのこして、旧村落段階をぬけきらない拝島宿を通りすぎていった。村々では、在村文化の黎明期とでも言えようか江戸出版の俳書類がすでによまれはじめてはいたが、もちろん朝廷志向の彦九郎の眼にはまったくとまらなかった。
化政期江戸文化人の代表の一人で忠実な幕吏=南畝大田直次郎は、一八一〇年に視察旅行中、玉川の風光をたのしみながら持前の知識欲を発揮しておおくの記事をのこした。しかし折から高揚期をむかえていた在村文化には、「よむにたらざれども地名の考へもあればうつし置なり」などと、江戸中央文人としての行き場のない知識欲の範囲内で関心をはらうにすぎなかった。
のちに幕政改革に登場しながら挫折する能吏川路聖謨は一八四五年、在村文化よりも「民繁昌」に眼をつけ、水車動力利用の繊維加工業に「おもしろき也」・「めずらしき事也」を連発しながら通過していった。
彦九郎-南畝-聖謨というのは一見突飛な組合せであり、立場もまったくことなっている。そのまま並べて単純にくらべるわけにはいかない。しかし、かれらが昭島からうけた印象のちがいは象徴的である。それぞれが昭島の村々に見たもののあまりにも大きなちがいは、同時に、それだけ昭島の村々が経済的にも文化的にもはげしい変貌をとげていたことの象徴でもあろう。またその変貌をおしすすめてきた経済的・社会的・文化的ないとなみに、村人の膨大なエネルギーがそそぎこまれつづけてきたことの象徴でもあろう。
昭島においても近世という時代は、その最終末期にさしかかっていたのである。