文化文政期を中心とする在村文化発展期において、多摩の村々にめだった文化現象の一つに、剣術・柔術などの武術習得があった。文化現象といっても、かなり政治的意味あいのつよいものである。
多摩にもっともひろく普及した武術は、「天然理心流」とよばれ、剣術を中心に柔術・棒術をあわせたものである。はじめは八王子千人同心の郷士身分のものが習練する武芸であったが、天保一〇年代から急速に、一般の豪農層にまでひろがった。昭島の村々でも、多摩各地の「天然理心流」の道場や出稽古場で、これを習得したものが少くなかった。
たとえば戸吹村(現八王子市)の千人同心松崎家のひらいていた道場には、天保九(一八三八)年から元治元(一八六四)年までの二十数年間に、拝島村一〇名・大神村四名が入門していた。日野宿の名主佐藤家の道場には、少くとも慶応三年だけで、中神村から八名の入門者があった。後述するようにそれら入門者のほとんどが村役人・豪農層の跡取り息子たちであった。また関東の武芸達者の名前を収録した『武術英名録』(万延元年(一八六〇)刊)という書にも、拝島村下宿(しもじゅく)の一人の人物が紹介されている。明治三〇~四〇年代になってまでも盛んで、二宮村(秋川市)の井上道場に、一八名の拝島村・中神村の村民が入門した記録がのこっている。また拝島村の本覚院には、井上道場門人の武芸達者の名を刻んだ額が奉納されている(大正二年)。多摩郡全域でも、昭島の村々でも、幕末から農民が武芸を習得することにきわめて熱心だったことがわかる。
では、農民の武芸習得熱は、文化的あるいは政治的にどのような意味合いをもっているのであろうか。必要な範囲で、近世の幕藩制社会の基本原理とてらしあわせながら考えてみよう。
まずこれは、本来なら武士のみが行うべきはずの武術習練を、百姓身分でありながらあえておこなおうという文化現象である。武士と農民とをきびしくわけてゆくべき幕藩制社会のありかたと、その支配階級として武力を独占し国家を形成してきた武士の政治的なありかたに大きくかかわることであった。少くとも多摩地方において農民の武芸習得熱を在村文化の欠かせない要素だとすれば、幕末における在村文化は、ひろい意味での政治思想~政治運動をもふくみながら展開していた、ということになる。
ここでは、昭島市域の村人が参加していた「天然理心流」のようすをとおして、幕末の村落における政治と文化の動向をさぐってみることにしよう。