B 幕藩制国家と農村武芸

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 近世は、日本の封建社会が確立した時代である。武士と農民は、職分をはじめ居住地域などもふくめた社会的な規模で、明確に身分をわけられた。武士は、支配階級として武力を独占し武力強制のもとに、農業専従者として固定された農民の生産物を、年貢米として収奪する、というのが社会の基本の姿であった。この状態を兵農分離とよんでいる。
 その基本がととのえられたのは、豊臣秀吉政権下で百姓の武器所持を厳禁した、いわゆる刀狩令(天正一六(一五八八)年)と、武士・百姓の転職を禁じた身分統制令(同一九年)とであった。徳川政権もこれをいっそう強めながらひきつぎ、農民の武器所持をきびしく禁止した。農民間の境争論などに武器をつかったときも、「其一郷可成敗事」(慶長一四(一六〇九)年)として厳罰に処した。「年貢さへすまし候得ば、百姓程心易きものは無之」(「慶安の御触書」一六四九年)という考え方で、農業専念・貢租完納の義務以外の一切のことにかかわらせないことが、幕藩体制下の農民のありかたの基本とされた。
 逆に武士は、「侍之道無油断軍役等可相嗜事」(「諸士法度」寛永九(一六三二)年)が最大の義務とされ、「忠孝をはげまし、礼法をただし、常に文道武芸を心がけ、義理を専(もつぱら)にし、風俗をみだるべからざる事」(寛永一二年)とされた。武芸の独占は、同時に学問の修得や社会道徳・社会秩序護持の役割を独占することでもあった。そのことが、実は武士の社会的に存在するべき理由の最高のものと強弁されていたのである。
 逆にいえば、農民が農業専念・貢租完納の義務の範囲を少しでもこえて、武芸習得にはしることは事実上、武士階級を中心とする封建社会の社会道徳・社会秩序の正統な形をくずすことであり、武士の存在理由そのものを骨抜きにすることと同じであった。もちろん、武芸習得を志すようになった農民に、はじめからそのような意図があったわけではない。のちにくわしくのべるとおり、むしろくずれゆく封建的村落秩序・道徳をまもろうとする動機がつよかった、とみるべきであろう。しかしそれであっても、結果としては、本来武士が独占するはずの社会秩序・道徳維持の役割に、農民みずからが割りこんでゆくことになる。幕藩制国家の基本原理からみれば、農民の武芸習得の社会風潮は、厳しく禁止されなければならなかったのである。
 ちょうど、天然理心流などの新興諸流派が勃興しつつあった一九世紀極初頭、文化二(一八〇五)年には、つぎのような趣旨の禁令がだされている。
    御勘定奉行え、
  近来在方ニ浪人もの抔(など)を留置、百姓共武芸を学ヒ、又は百姓同士相集り、稽古致候も相聞へ候、農業を妨候計(ばかり)ニも無之、身分をわすれ、気がさニ成行候基(もとい)候得ば堅く相止可申候、勿論故なくして武芸師範致候もの抔、猥(みだり)ニ村方え差置申間敷候                          (『御触書天保集成』六二九〇号)
 禁止の理由として、(一)農業専念・貢租完納のさまたげになること、(二)百姓身分であることをわすれて社会秩序にはずれること、(三)「気かさ(嵩)」つまり勝気・負けん気をもつようになるもとであること、をあげている。社会の原理からすれば(一)・(二)は当然の理由でもあろうが、とくに(三)では農民が精神的に向上し、内面に昂然たる誇り・気慨や、何者にも負けない意志をもつこと、いいかえれば主体性~自立性を内面にもつことを指摘しているのである。武士の外面上の武力強制ではおさえられない内面の精神的な自立をおそれていることになろう。封建社会の為政者にとって、武芸習得の社会風潮は、農民の精神的・内面的な自立~主体性の確立への道とうけとられるものであった。
 禁令は、勘定奉行から関八州の御領(幕府領)・私領(旗本領)にだされたが、村々ではほとんどまもられなかったらしい。十分の効果がないと見てとった幕府は、同じ趣旨の禁令を幕府倒壊直前の慶応三年まで何度もくりかえしだしている。農民の武芸習得熱の高揚と幕府禁令のくりかえしは、幕末の社会秩序解体現象そのものだったわけである。
 禁令にもかかわらず、農民の武芸習得熱が高まる一方であった理由は、のちほど天然理心流の門人録の分析からくわしく考えてみたいが、第一節でのべたこととあわせて結論を先にいうとつぎのとおりである。
 第一は、すでに第一節でのべたような、本百姓の豪農と貧農への分解を原因とする村落秩序の動揺である。中下層貧農の下からの村政に対するさまざまなつきあげに、村役人層豪農が、独自に対応できる力--一種の新しい政治力--をもとうとすること、いいかえれば、豪農の武装化=政治化志向である。
 第二は、とくに関東農村特有の状況である。第一節でのべたような、領主権力の比較的稀薄な非領国的状況、畑方金納のため早くから貨幣経済にまきまれている畑作地農民、大消費都市江戸とこれに集中する五街道・脇往還・宿場町・市場町・河岸場、それらにうずまく人・商品・銭のはげしい往来、村をたえず出入りしてそこに銭稼ぎをもとめる農民各層、かれらが天明年間ごろから領主支配領域はおろか一国単位をこえておこすいわゆる広域闘争、現金収入に生きる農商民や旅人をあてこんで横行する博徒・無頼の徒……。こうした関東農村特有の社会不安・治安悪化の激しさそのものを第二とすれば、そのなかで、村役人として村落秩序をまもり、豪農としての新しい経済活動の場をみずからの手で保とうとするきわめて政治的な意識は、武芸習得に向わせる契機の第三というべきであろう。
 第四は、幕府がみずからすすめた「農兵」政策である。欧米列強の圧力をうけはじめた情勢下で、文政改革以来の関東農村統制強化手段であった組合村体制を、さらに強化するべく、村役人層豪農の子弟を中心にした「農兵隊」を組合村単位につくることであった。それが政策として実現するのは文久三(一八六三)年文久改革の一環としてであったが、その政策構想は、代官江川太郎左衛門によって、天保一〇(一八三九)年頃からとなえられた。それは、そのころすでに鮮明になっていた豪農の武装化志向を、いわばおそまきながら上から吸収~再編成してゆこうとする動きであった。表向きの禁令にもかかわらず、農村武芸促進の温床は、領主側からも提供されていたわけである(農兵については、第五章第三節参照)。
 第五は、そうした上からの吸収~再編策に、みずからすすんで応じてゆく豪農層の動きである。幕末社会の内外の危機を、関東農村特有の状況のなかでいっそう深刻にうけとらえざるをえなかった豪農たちは、まだこれを独自に解決する道を発見できるまでには到らなかった。幕・藩の別をこえる広域の--その行きつく先はおそらくは日本全域的な--統一権力強化によってのりきることを、何よりもまず身近の幕府に期待する姿勢をとらざるをえなかった。それがとりあえずは幕府の絶対主義化を目指す文久改革の一端にくみこまれる「農兵」応募者に集約してあらわれ、豪農の武芸習得熱はいっそう高まったわけである。
 以上の全体的なことを前提にしながら、多摩郡全域と昭島市域にさかんであった天然理心流のようすを見てみよう。