C 多摩の農村武芸「天然理心流」

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 天然理心流は、「多摩に生れ、多摩に育った剣法」だといわれている(『天然理心流印可』写真版解説林栄太郎「序にかえて」)。昭島の村民が、天然理心流に走りはじめた天保年間の、『武術流祖録』(天保一四年(一八四三)刊)は、刀術全六六流のうちの六一番目に、つぎのように説明している(早稲田大学図書館所蔵本による)。

 

  (天然理心流。近藤内蔵助長裕(くらのすけながみち)。遠江(今の静岡県)の人なり、刀術を好みてその妙を得、天然理心流と号す。その門に近藤三助方昌(のりゆき)その宗を得たり。方昌は武州八王子に住す。その門許多し。)
 これによると、江戸時代に数おおく生れた剣術諸流派のなかでは、歴史も浅く、かなりおそい時代にできたものである。初代流祖とみなされた近藤内蔵助長裕(ながみち)は、とくに多摩とは深い関係をもっていなかったが、二代目をついだ方昌(のりゆき)という人物が、多摩と天然理心流を結びつけたものらしい。
 二代目三助方昌(のりゆき)は武州戸吹村(現八王子市戸吹)の名主坂本戸右衛門の長男で、若い頃長裕の江戸道場で免許皆伝をうけた。やがて名主役を父からうけついでいたが、文化四(一八〇七)年に師の臨終に呼ばれて流派の継承を託され、姓を近藤と改めて正式に二代目をついだ。文政二(一八一九)年四六歳で死去するまで、戸吹村の自宅を中心に、八王子・府中・布田など近在の宿・村に出稽古に歩き、多くの門弟をかかえていた。その死後にはすぐ三代目をつぐものがなく、一〇年余も宗家のかけたまま、術そのものは多摩各地の弟子たちの道場で教えひろめられていたものらしい。それらは、つぎの三代目が宗家をたてなおしてからも、宗家とはなれた別流の道場として多摩各地につづくことになる。
 のちに三代目を称することになる周助邦武は、多摩郡小山(現、町田市)三ツ目の年番名主島崎休右衛門高友の五男で寛政四(一七九二)年生れ、家は酒造業をいとなむ豪農であった。文化八(一八一一)年戸吹村の近藤三助の道場に入門、文政九(一八二六)年には、小山村の自宅にも道場をひらいた。天保元(一八三〇)年にいたり、二代目の死後一〇年余の空白をおいて三代目をつぐこととなり、近藤姓を名のった。天保一一(一八四〇)年道場を江戸にうつし、江戸道場と多摩各地の出稽古先とをあわせて、大勢の門人を擁するようになった。嘉永二(一八四九)年、門弟のなかから多摩郡石原村(現調布市)の宮川又次の子をえらんで養子とし、文久元(一八六一)年に正式に四代目をつがせた。これが、のちの幕府新選組に局長として名をつらねる近藤勇昌宜(まさよし)であった。この三・四代の門弟のうちから新選組隊士に加わる者があらわれ、幕末の政局に深いかかわりをもつようになったことは、よく知られているとおりである(以上二~四代については平尾道雄『新選組史録』。小島政孝『新選組隊士列伝』による)。
 このように、天然理心流の後継者が多摩の豪農出身者であったこと、多くの小道場・稽古場が、あるものは宗家の出稽古場としてあるものは別派の道場として多摩各地に分布していたこと、発達の時期が文政から天保・嘉永年間にかけての多摩地方在村文化の発展期にかさなっていること、幕末最終段階にいたって幕府政治の崩壊過程にもふかくかかわってくることなど、天然理心流が「多摩の剣法」として、多摩地方農村の文化的政治的動向をあらわす重要なことがらであったことはまちがいないであろう。
 それは、少からぬ村民の入門者を生んだ昭島市域の村々においても、同様であった。