佐藤彦五郎は、日野宿の問屋・名主兼帯で、慶応二年武州世直し一揆の鎮圧に動いた日野農兵隊の隊長格であった。自宅に道場をおき、多摩各地の江戸派系の道場のなかでも有力な位置をしめていたらしい。また俳諧もよくして「春日庵盛車」の号をもち、昭島の在村俳人とも交流があったものと考えられる。『武陽大勝山観音堂永代奉額句合酉九月』(太白堂他撰)に、中神村の「玉露」といっしょに句をのこしている。(第二節一参照)
時鳥(ほととぎす)鳴やゆれ出す篭渡し ヒノ盛車
彦五郎のほかにも、日野の在村俳人仲間の寿堂・竜西・竜正・泰々・貞月・貞露・瑩徳の号を、月並句合・奉額句合など多くの史料のなかに昭島俳人とならんで見出すことができる。また第一節にものべたように、新選組で近藤勇の輩下にあり、明治二年函館戦争で死んだ土方蔵三(日野宿の在、石田村の農)も、「豊玉」の号をもつ在村俳人の一人であった。土方のように天然理心流の達人であると同時に在村俳人でもあった者は少くない。市域では後述する拝島村の「芳翠居桑圃」大沢勝右衛門がそうである。俳諧をたしなむ多摩の豪農連が、一方で武芸習得に走っていた理由については、在村文化の特質もふくめてのちに考えてみたい。
ところで、日野の佐藤彦五郎道場の門人帳に名をみせている昭島の村人は、第1表のとおりである。ちようど明治五年の中神村戸籍に各人の関連事項を見出せるものもあるので、それをあわせて表にした。
第1表
(3)については今のところ何もわからない。(8)は築地村の名主石川家の一員と思われる。そのほかのものもあわせみると、つぎのような特色がわかるであろう。
(一) 入門者は、ほとんどが一〇歳代の青少年であること。
(二) すべて農民当主の跡取りであること。
(三) 持高は、この地域としては最上層にぞくする豪農であること(とくに(4)は例外的に高く、小作経営・利貸・旗本賄などをおこなっている。)((5)(6)はそれほどではないが、やはり名主家の分家一族として、村内での位置は高い。)
(四) いずれも村役人層の家であること。
つまり、多摩の天然理心流は、村内外での地位と経営を維持するべく、跡取り息子に武芸を習得させようとする村役人=豪農層の動きのうえに、なりたっていたものと推定してよいであろう。これも多摩郡全体の門人の動向とあわせて、あとでもう一度考えてみよう。