G 『武術英名録』のばあい

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 昭島の人名をのせたものに、門人帳のたぐいではないが、万延元(一八六〇)年に刊行された『武術英名録』という書がある。江戸の甲胃商が財元になって、無双刀流江川英山・北辰一刀流真田玉川という人物が編纂したものである。英名録というのは、武術修業者が携帯した帳面で、訪問先で稽古した相手の署名などを記すものである。この書は、右の二人の英名録をもとにして編纂されたものと考えられ(渡辺一郎『幕末関東剣術英名録の研究』)、幕末の関東各地の剣術者(おそらくその多くが道場をかまえていたものと考えられる)の所在を知るのに便である。そのなかに昭島市域の人名と推定できるものが一人見出される。
 
   遠(を)之部  (二人目)
  天然理心流 武州相(ママ)嶌村下町
            大澤勝右衛門
 
 相嶋村下町は拝島村下町(下宿)のまちがいであろう。拝島村大澤勝右衛門ならば、幕末~明治初・中期に「芳翠居桑圃」という俳号で史料にあらわれてくる。青梅の横川氏好々居臼左の『正風蕉門人名録』にも名を連ねている。
 右のとおりだとすれば、昭島市域にも、剣術修業者の訪問試合の相手となりうるような腕前のたつ剣術者として、江戸など他地域にもあるていど名の知られたものがいたことになる。なお『武術英名録』全体を見ることによって、門人録などの狭い範囲をこえた、天然理心流の全体像をつかむことができよう(同前渡辺一郎)。