二宮村井上道場『神文之事』と血判
明治期の天然理心流は、江戸期とちがった意味合いをもっていた。中央政界に進出した多摩地方の政治家が、国会・府県会に政党員として活動するとき、政治勢力を強める手段の一つに多数の院外団を組織した。そのときの院外団員を「壮士」とよんだが、そのなかで、「三多摩壮士」は天然理心流で武術を鍛えたものが多く、おもに自由党~政友会系にぞくしてその勇猛ぶりを発揮した。また民権論から国権論への傾斜の度合を強める役割もはたしていた。こうした明治期天然理心流は、いわば、多摩地方の人々の、中央政界・藩閥政治にたいする一つの政治的な意志表示の役割を、になわされていたといえよう。そうした政治的風土のなかで、昭島市域の人々の天然理心流の習得熱は、明治期もいぜんとしてさかんだった。さきの戸吹村松崎道場の系譜をひく井上道場の、門人帳『神文之事』に、右表のような昭島の人々の名を、その血判とともに見出すことができた(井上昌作家所蔵)。
この井上道場は、大正初めごろになってもさかんで、「心武館」と名づけられていた。拝島の本覚院には、大正二年一一月二三日に「心武館主 井上才市」を願主として、門人の名(村名なし)を刻みこんだ額を奉納している。現在も本覚院本堂西側の軒にかかげられているのを見ることができる。
本覚院『心武館奉額』
その日、奉額記念に大日公園で「大撃剣大会」がひらかれた。そのときのことを拝島村の榎本太助は、『農事日誌』につぎのように書きとめた。
十一月廿三日晴天、午前九時ヨリ大日公園ニ於テ、心武館奉額大撃劔大会アリ、午前中看板ヲ建立ス。
(昭島市史資料編「民俗資料としての『農事日誌』」より)
榎本太助も、その一員として、世話役をつとめていたのであろう。看板にひかれて市域から見物人も大勢あつまったことだろう。このように大正時代も、昭島市域の天然理心流はまだ身近なものであった。
ところでこの日、右の奉額に書きいれた名前の序列のことで門人同志が争論になったため、後日これを改めた額をつくって御獄山に奉納した。ところが序列がかわったことに不満な門人からまた争論がおこされた。やむをえず序列を正式決定する試合大会を竹刀で行い、その勝負の厳正な記録によった序列にしたがって三つ目の額をつくり、これを高幡不動尊に奉納、やっと争論がおさまった、といわれている(本覚院故川勝宗賢師談)。
近世末期の政治的文化的な動きとして農村にひろまった剣術が、大正期になっても、少なくとも当事者にとって真剣な問題であったことは、日本の「近代」社会・「近代」文化がその精神の底では、欧米文化の流入で大きくかわった「中央」の文明的・都市的な面と、根強くかわらない「地方」の土着的・村落的な面を、あわせもっていたことを象徴していることになろう。